集落の中に鎮座する。叢林が目立つ神社である。 服部氏の一族がこの地に住み着いて、その祖神を祀ったと思われる。 度会延経「神名帳考証」は当社を式内穴石神社に比定している。 |
由緒 服部小宮神社(おみやじんじゃ) ■鎮座地 〒518 上野市服部町中之坊1158番 ■電話 0595−23−4364(宮司宅) ■交通 近鉄上野市駅から柘植行バス服部下車 【御祭神】 呉服比売命、健御名方命、大山祇命 境内社・狭伯社=天児屋根命 【社殿】 本殿=流造、南向/拝殿/中門/狭伯社=流造、南向、覆屋あり 【旧社格】 村社 【由緒】 小宮神社は伊賀国阿山郡府中村大字服部字中之坊一一五八番(現、上野市服部町)に鎮座する延喜式内社で、服部氏の祖、呉服比売命を主神とする。その境内社の「狭伯社」に建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命の三柱を祀る。 明治39年5月28日、同村大字服部字夏ハセ四九七番鎮座の「狭伯社」に、その境内社「粟島社」を合祀して、小宮神社境内に移転し、その狭伯社にさらに、以前から小宮神社境内社であった「津島社」と、大字服部字中之房一〇九六番鎮座の無格社「春日社」を合祀したものである。 今日、当社の拝殿正面に掛けられている三つの神額には、中央に「小宮神社」、向って右に「蛭子社」、左に「狭伯社、春日社、津島社」と見える。この狭伯社には明治期に粟島社(少彦名命)を合祀しているし、一般に春日社は天児屋根命、津島社は建速須佐男命を祭神とする。従って狭伯社の三柱の神はいつの世か不詳ながら、この地に勧請されたこれらの神々が、明治39年に合祀され、狭伯社として小宮神社の境内社となったのである。 【施設】社務所/参集殿/参篭所/神饌所/宝物殿/祭器庫/手水舎/ 瑞垣/遊園地 【宝物】小供御輿二基 【摂・末社】狭伯社=建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命/蛭子社=蛭子命 【社紋】丸に三ツ矢 【神職】宮司=近藤晃 〒518 上野市西山2265 0595−23−4364 【教化委員】南隆史 〒518 上野市服部町1068 0595−23−4782 【氏子】総代=南隆史、工藤博昭、 岡角俊夫 (氏子数90戸) 【崇敬団体】敬神婦人会=20名 【例祭日】秋祭 10月9日 【祭祀】祈年祭 3月1日/祇園祭 8月1日 狭伯社 3月15日、10月17日 【境内】870坪 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
小宮神社 按に、式の小宮神社を以て服部氏祖神の祠なりとは伊水温故に始まり 三国地誌に至りて服部村の諏訪大明神を以て其の社に擬し 以後全く定説となれるの観あり されど 小宮神社を以て服部氏の氏神と為せるは 小宮(オミヤ)を以て麻績(オミ)の宮と解し 服部氏に付会せるの形跡あり しかし服部氏と麻績氏とは其の出自を異にしたれば 小宮神社を以て服部氏の祖神と為すは如何あるべき 但し後世其の職掌の類似に因りて彼比紛糾せりと解すべきか 今の府中村服部は和名抄に見えたる阿拝郡服部郷にして 早くより服部氏人の蟠衍したれば 彼の諏訪大明神祠なるものも或は此の氏人の其の祖を奉祀せる所なるべけれど 之を以て式の小宮神社と為すは猶研究の余地有るに似たり 又 秦の酒君が雄略天皇の御宇に太秦の姓を賜りたること 秦氏は元来外来の氏族にして其の出自の秦始皇なること 姓氏録の蕃別・秦氏に載せて詳なり されば服部の氏人が酒君に祈ると云ふことも聊か不条理なりと云わざるべからず されど 服部の地早く秦族の蟠衍せるもの 終に土着して一郷を成すに至れるならん 而して 秦氏の族 社を建てて其の祖・酒君を祀れりと解すべきが如し 而も彼の諏訪祠なるもの果たして酒君の祠也や否や 容易に断定下し難し 三重県神社誌 |
小宮神社 小宮は乎美也と読り○祭神秦酒君、(伊水温故)○服郡郷服部村に在す、例祭(欠く)○当国二営也、(伊水温故)○残編風土記云、服部里、有神號小宮大明神、并狭伯大明神、共服部氏祖之所祭也、 姓氏禄、(左京諸蕃上)太秦公宿禰、秦始皇帝三世孫孝武王之後也、男功満王、足仲彦天皇(諡仲哀)8年來朝、男融通王(一曰弓月王)誉田天皇(諡応神)14年来朝、率百二十七縣百姓帰化、献金銀玉帛等物、犬鷦鷯天皇(諡仁徳)御世、以百二十七縣秦民分置諸郡、即使養蚕織絹貢之、天皇詔曰秦王所献糸綿絹帛、朕服用柔軟温暖肌膚、賜姓波多公、秦公酒、大泊瀬幼武天皇(諡雄略)御世、糸綿絹帛悉積如岳、天皇喜之賜號曰禺都萬佐、○伊水温故云、応神天皇御字に、呉国と漢國より絹を縫織延、又糸綿を引賢女を渡す、呉國より渡るを呉服と云、呉服部は秦始也、此部の先祖酒公也、此人阿拝郡を知行しける故、其住ける所を服部といふよし、諸書に見えたり、 神社覈録 |