穴石神社
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   【延喜式神名帳】穴石神社 伊賀国 阿拝郡鎮座

   【現社名】穴石神社
   【住所】三重県伊賀市石川2291
       北緯34度50分32秒,東経136度9分17秒
   【祭神】木花佐久夜比売命
       (合祀)天津児屋根命 天長白羽命 天香香脊男命 市杵島比売命
       宇迦能御魂命 火産靈神 彌都波能賣神 大山祇命 武甕槌命 経津主命
       健速須佐之男命 仁徳天皇
       『伊賀国名所記』『伊水温故』『三国地誌』『神社要録』木花佐久夜比売
       『特選神名牒』素盞鳴神
       『三重県神社誌』古佐鷹豆智命

   【例祭】4月16日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創建の年代は明らかでない
       貞観元年(859)正月27日從五位下『三代実録』
       天正9年(1581)伊賀の乱により、社殿、古書等は悉く焼失
       寛文2年(1662)若宮大明神造営の棟札
       明治4年7月村社
       明治39年9月穴石神社と単称

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは波敷野村にあり

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天津社」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       神樂殿・拝殿・手水舎・社務所・鐘楼

   【境内社】

元は天津社と称し波敷野村にあり、石川・波敷野両村の総社であつたが、両村に分祀することとなり、神体を波敷野村に祀り、神宝を石川村に祀つた。石川村ではこの神宝を穴石神の地に祀つたため、これを天津社と称して、穴石社という社名がかくれてしまつた。
波敷野村に残った天津社は、明治41年7月に陽夫多神社に合祀された。
『伊勢国風土記逸文』に、伊賀の安志社に坐す神は、出雲の神であるオオナムチの神の子である出雲建子命、またの名は伊勢都彦であるとある。


由緒

穴石神社御由緒
本社は延喜式(西暦928年)内社にして神名帳に、穴石神社とある。その創立は不祥であるが「清和実録」に「真観元年(西暦858年)巳卯正月27日庚申京畿七道諸神進階及、新叙奉授伊賀無位穴石神従五位下」とあるので、それ以前であることは明らかである。 又図書に「石川村天津社是か其社地甚旧く社頭の結構尤古稚にして、古来の式社と云うべし、旦名張郡国津社を以って国(伊賀国)の南辺を鎮し、本郡天津社(本社)を以って国の北辺を鎮し、国の中央敢国津社を以って中極を鎮し、一の宮と称す」とある。按ずるに、一名天津社とも称されていたと思われる。
古来本社の所在については古書に各説があるが、藤堂元甫「三国地誌著者」の石川村天津社の説が正しいとして認められている。天正9年(西暦1581年)伊賀の乱により、社殿、古書等は悉く焼失した。明治39年9月より大正2年4月の間において、字内及境内に奉斎されていた各社を合祀して、穴石神社と単称することになった。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




穴石神社

特殊神事
勧請祭 神縄釣祭【一月第二日曜日】
氏子青年が、各戸から奉納された縄を太さ15センチ、長さ50メートルの大注連縄に縫い上げ、地区の巽の方向に流れる川の上に張り、福の流出、禍の侵入防止を祈願する。
木造狛犬
阿山町指定文化財
高さ54pの着色された阿吽一対の狛犬である。
後頭部内に墨書名があり、元和6年(1620)に河合重種と戌亥(乾)孫七郎および氏子八十余名が奉納したもので、江戸初期の秀作である。
阿山町教育委員会
石造宝篋印塔
阿山町指定文化財
この宝篋印塔は、青岳山にあった毘沙門寺から移されたもので、基礎には。五行の刻銘があり、南北朝中期「延文4年(1359)1月15日」の造立銘が確認された。
阿山町教育委員会

社頭掲示板



穴石神社

穴石は阿奈志と訓べし○祭神木花開耶姫命○在所詳ならず、(考証云服部村、伊水温故云、上柘植村)○残編風土記云、穴師山、有神號穴師大明神、所祭木花開耶姫也
類社
和泉図和泉郡泉穴師神社の條見合すべし
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授伊賀國無位穴石神從五位下

神社覈録



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