元は天津社と称し波敷野村にあり、石川・波敷野両村の総社であつたが、両村に分祀することとなり、神体を波敷野村に祀り、神宝を石川村に祀つた。石川村ではこの神宝を穴石神の地に祀つたため、これを天津社と称して、穴石社という社名がかくれてしまつた。 波敷野村に残った天津社は、明治41年7月に陽夫多神社に合祀された。 『伊勢国風土記逸文』に、伊賀の安志社に坐す神は、出雲の神であるオオナムチの神の子である出雲建子命、またの名は伊勢都彦であるとある。 |
由緒 穴石神社御由緒 本社は延喜式(西暦928年)内社にして神名帳に、穴石神社とある。その創立は不祥であるが「清和実録」に「真観元年(西暦858年)巳卯正月27日庚申京畿七道諸神進階及、新叙奉授伊賀無位穴石神従五位下」とあるので、それ以前であることは明らかである。 又図書に「石川村天津社是か其社地甚旧く社頭の結構尤古稚にして、古来の式社と云うべし、旦名張郡国津社を以って国(伊賀国)の南辺を鎮し、本郡天津社(本社)を以って国の北辺を鎮し、国の中央敢国津社を以って中極を鎮し、一の宮と称す」とある。按ずるに、一名天津社とも称されていたと思われる。 古来本社の所在については古書に各説があるが、藤堂元甫「三国地誌著者」の石川村天津社の説が正しいとして認められている。天正9年(西暦1581年)伊賀の乱により、社殿、古書等は悉く焼失した。明治39年9月より大正2年4月の間において、字内及境内に奉斎されていた各社を合祀して、穴石神社と単称することになった。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
穴石神社 特殊神事 勧請祭 神縄釣祭【一月第二日曜日】 氏子青年が、各戸から奉納された縄を太さ15センチ、長さ50メートルの大注連縄に縫い上げ、地区の巽の方向に流れる川の上に張り、福の流出、禍の侵入防止を祈願する。 木造狛犬 阿山町指定文化財 高さ54pの着色された阿吽一対の狛犬である。 後頭部内に墨書名があり、元和6年(1620)に河合重種と戌亥(乾)孫七郎および氏子八十余名が奉納したもので、江戸初期の秀作である。 阿山町教育委員会 石造宝篋印塔 阿山町指定文化財 この宝篋印塔は、青岳山にあった毘沙門寺から移されたもので、基礎には。五行の刻銘があり、南北朝中期「延文4年(1359)1月15日」の造立銘が確認された。 阿山町教育委員会 社頭掲示板 |
穴石神社 穴石は阿奈志と訓べし○祭神木花開耶姫命○在所詳ならず、(考証云服部村、伊水温故云、上柘植村)○残編風土記云、穴師山、有神號穴師大明神、所祭木花開耶姫也 類社 和泉図和泉郡泉穴師神社の條見合すべし 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授伊賀國無位穴石神從五位下 神社覈録 |