須智荒木神社
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   【延喜式神名帳】須智荒木神社 伊賀国 阿拝郡鎮座

   【現社名】須智荒木神社
   【住所】三重県伊賀市荒木108
       北緯34度46分20秒,東経136度10分10秒
   【祭神】猿田彦命 (配祀)武内宿禰命 葛城襲津彦命
        (合祀)誉田別命 菅原道真 火魂日命 大日霊貴命 須佐男命 市杵島姫命
        金山彦命 大山祇命 天児屋根命 天萬栲幡千幡比売命 宇迦能御命
        大鷦鷯命 彌都波能比売命
       『伊賀名所記』葛木襲津彦、武内宿禰
       『伊水温故』『三国地誌』『延長風土記』『神社覈録』『大日本史』
         猿田彦命・武内宿禰・葛城襲津彦
       『三重縣神社誌』師木津日子命

       当社が須知の稻置とのゆかりがあるとすれば、武内宿禰・葛城襲津彦命よりも
       師木津日子命(磯城津彦命)を祭神と考えるのが妥当であろう。

   【例祭】10月20日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】鎌倉時代初期伊賀守仲教によつて修造
       天正9年織田軍伊賀攻の際焼失
       慶長17年3月13日再建
       明治4年7月村社
       昭和6年9月郷社

   【関係氏族】須知の稲置
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「白髭明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造桧皮葺
       神饌所・手水舎・中門・宝庫・参籠舎・社務所

   【境内社】鎮霊社
   【宮寺】別当寺は真言宗の久光山延寿院宝生寺

服部川の南岸荒木山の中腹に鎮座する。
俗に白髭明神と称している。
創建の年代は明らかでなく、鎮座についても伝えるところがないが、須知の稲置が、和名抄にいう周知郷に居住した氏族であり、その氏族の一部が荒木(新墾)すなわち新たに開墾した地に移住して、この地に神社を創祀したのが、この須知荒木神社であつたのであろう。
当社の東南方向の尾根上に四世紀後葉から五世紀中葉の前方後円墳がある。


由緒

須智荒木神社
須智荒木神社(通称 しらひげさん 白髭大明神)
神紋  笹竜胆
鎮座地 上野市荒木108
祭神  猿田彦命、武内宿禰、葛城襲津彦命、大鷦鷯命、譽田別命、大日ルメ貴命、
    市杵島姫命、天児屋根命、菅原道真、彌都波能比賣命、金山彦命、
    天萬栲幡比賣命、大魂日命、須佐男命、大山祇命、宇迦能御魂命
祭祀  例祭 一〇月二〇日  その他年中恒例祭儀 九回
境内神社  鎮霊社(地区内戦歿者の霊)
社殿  本殿(神明造) 拝殿 神饌所 社務所 参篭所
境内  350坪 境外 300坪
氏子  350戸 上野市中瀬地区 崇敬者 約1100名
由緒  当社は創祀については、詳らかにはし難い。須智の稲置の一族が、この地を開墾し、ここに奉祀したものと考えられる。平安時代には伊賀国阿拝郡の小社須智荒木神社として、延喜式内社に列せられた。天正9年(1581)の天正伊賀の乱に際して、伝世の古記録・古文書のことごとくを焼失した。只一つ伝承として鎌倉時代に伊賀守仲教なる人物が、社殿を造替したと伝えられている。仲教は寿永2年(1183)伊賀守に任じられており、あるいは鎌倉時代初期に社殿が修造されていたことになろう。
その後、慶長17年(1612)にいたり、社殿は再建された。江戸時代にはあつく崇敬され当社の他、敢国神社・菅原神社・愛宕神社・浅宇田神社をあわせて伊賀五大社と称し、領主入国の折りに必ず参拝するのが例であった。明治41年(1908)大字西明寺鎮座の八幡宮をはじめ29社をそれぞれ合祀した。
昭和6年(1931)村社から郷社昇格。昭和21年(1946)社格廃止。
宝物  石造灯篭(安政2年[1855]作の在銘を有す。)
交通  近鉄線「上野市」駅下車、駅前より三交バス阿波行きにて「寺田橋」下車、徒歩約10分。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




芭蕉の句碑

元禄3年3月11日
畠うつ音やあらしのさくら麻 ばせを
荒木村白髭社にて
元禄3年(1690)芭蕉47歳の作。
季語「畑打つ」で春。
「芭蕉句選拾遺」(井筒屋寛治編)に、「元三(元禄3年)」此句木白ぼくはく興行ニ一折有ひとりあり。3月11日、荒木白髭にての事也」とする。
「白髭」は白髭神社のこと。
木白は伊賀藤堂藩士岡本治右衛門政次で、瓢竹庵主。
後に苔蘇と改号している。
前日の3月10日付、江戸の杉風宛芭蕉書簡には、中七を「あらしの音や」と報じていることから書簡の句が初案で、翌11日、白髭神社における木白主催の俳席に改案し臨んだことになる。
「あらし」が「荒し」と「嵐」の掛詞となり、繊細な市場をもって春らしい郊外の野良風景を詠んでいる。
「さくら麻」は麻の雄株。
「桜ノ咲ク頃、蒔クモノナル故二云フトモ云ヘリ」(万葉集古義)とも、麻の花が桜ににているからともいわれている。
句意は、「春になって畑を打つ音がしきりにする。
傍らの畑には桜麻が可憐な芽を出し、双葉が風にそよいでいる。
麻の芽にとって、あの畑打つ音が荒々しい嵐のように聞こえるであろう。

社頭掲示板



須智荒木神社

須智は假字也、和名鈔、(郷名部)名張郡周智、」荒木は安良岐と訓べし○祭神猿田彦神、武内宿禰、葛城襲津彦、(風土記)○荒木村に在す、今白髭明神と称す、(温故考)、例祭(欠く)○古事記、(安寧段)師木津日子命之子二王坐、一子孫者、伊賀須智之稲置、那婆理之稻置之祖、○残編風土記云、荒木山、有神號須智明神、所祭猿田彦、武内宿禰、葛城襲津彦也、』著聞集一云、伊賀荒木の白髭明神の相殿の神にてまします葛城の襲津彦は、武内の御子にていみじき武士にて有けるを、此相殿に定められ、後三條院御位にましませる時、鹿の皮にて拵たる皮袴を、あまた夢中に此神授け給ひしに、御狩の時に鷹部のものを召れてきせしめられければ、其わざよかりしより、其こしらへの如く、荒木の里人にこしらへさせられ、終にみつぎどなりし也、夫より伊賀のはかまとて、今に御狩には用ひらるゝ也、是もみかどの御くらいのふかきゆえとぞ、
伊水温故云、社北面ナリ、昔ハ本社ニ白髭、若宮ニ武内卜襲津彦ナリ、從五位下伊賀守藤原仲教修造ト伝フ、禮殿、鐘楼、社僧十九坊、社領五百石、天正ノ乱ニ焼、
類社、
山城国綴喜郡朱智神社、大和国宇智郡、伊豆國田方郡、丹波国天田郡荒木神社、(各一座)飛騨國、荒城郡荒城神社、

神社覈録



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