宇都可神社
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   【延喜式神名帳】宇都可神社 伊賀国 阿拝郡鎮座

   【現社名】宇都可神社
   【住所】三重県伊賀市内保
       北緯34度52分54秒,東経136度10分27秒
   【祭神】金山彦 天忍日命
   【例祭】4月6日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天武天皇2年(673)初めて祭燈を行つた
       貞観15年(873)9月27日従五位下『三代実録』
       明治40年阿山町大字玉瀧の豊田神社に合祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「通山社」と称していた
   【社殿】本殿
       鐘楼・手水舎

   【境内社】
   【宮寺】紫雲院安樂寺

集落内の小山の頂。叢林こんもりよく目立つ。
出口延経の『神名帳考証』菊岡如幻の『伊水温故』伴信友の『神名帳考証』、『三重縣神社誌』は当社を式内社とする。
明治40年、阿山町大字玉瀧字宮ノ下の村社豊田神社に合祀され、同時に豊田神社は村社玉瀧神社と改称され、現在地は玉瀧神社の御旅所となっている。


伊賀の伝説・民話

聖徳太子が阿山町の玉滝を通られたときのお話です。
 琵琶湖岸の堅田で人魚を助けた聖徳太子、三十二番観世音寺から帰られる途中の阿山町玉滝付近でオロチ(大蛇)が現れ行く手をさえぎった。オロチは鎌首をもたげ口から火を吹いて一面は火の海となった。太子が途方にくれておられると忽然と白髪の翁が現れ、太子に一筋の鏑矢をささげた。太子が弓を引き絞りオロチめがけて矢を放ったところ、矢はオロチの胴を射抜きオロチは倒れ窮地を脱することができた。太子は翁に礼をのべようとあたりを見渡したがすでに姿はなかった。
 その後、太子が内保を訪れたとき、再び翁とであったので「汝の名は」とお尋ねになると「われは宇都可の神七代の孫宇摩志阿斯許備比古遅神次代の天之常立神の変神宇都可翁なり」と答え、山深く姿を消したので、この地に通山宇都可大明神としてまつられました。
 また、オロチを射抜いた鏑矢は滋賀県甲南町の川で見つかり、矢川大明神としてまつられました。
〔参考文献〕阿山町誌「故さとの歩み」



通山大明神来由記

于茲伊州阿拝郡鎮座通山大明神者天忍日命神霊也。 垂迹摩利支天本地如意自在之変作也。 嘗尋其神徳粤人皇三十二代用明天皇之皇子聖徳太子聡明叡智而仁慈溢四海、且遵信西洋之学欲合一我神教之道。 于?守屋大臣以為異域之教乱国政乎。 於是背君命太子帥師伐守屋、奇策屡砕官軍矣。 太子則造四天王之像於和洲志貴山修朝敵降伏法観霊夢。 有神曰、入紀伊両国境有作也。 於是太子往彼境逢路於奇童、童能説堅甲利兵之道、次教弓木兵篦於所在而身化鴛鴦、尾一羽喰抜落地?去。 此地号鴛尾山(通山大明神勧請之地也)。 亦見蒼鷹之飛忽墜一個羽去矣。 太子?以製矢羽。 此地号鷹岡。 切篠作矢此流号篦川、伐榎作弓此地号榎谷。 太子倍興信、于?復奇童携弓矢乗白馬出現授兵書与矢于太子告白、以此矢初矢合前所作鴛鷹之矢可射守屋矣。 太子問曰、何化神栖径何所。 答曰、自神代守弓矢忍日命我也、常逍遥此山。 太子曰、霊也的哉。 号曰通山大明神。 神曰、減汝真心早可討敵必宜護於汝。 誓了騰天其形始現摩利支天之像。 後顕六臂両足如意自在尊容。 即垂迹内保地也。 太子使馬休繋杉後世号馬杉、伐竹作鞭其地号鞭原。 始立籏其地号籏岡、作楯其地号楯打。 太子陣舍数日此地号御所牧。 其南有御所箇谷云地、内保之名亦倶仍之号乎。 既而調練兵出河洲伐守屋、守屋戦敗授首眥依通山大明神之加護奇瑞不可枚挙。 太子仰神徳勝照四戊申歳、初着甲冑所号甲賀郡、是勝軍之目也。 而折榊為幣帛造営宮社勧請通山大明神号鴛尾地、称日本無双勝軍神矣。



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