境内には、黄泉の国に行った伊邪那岐命が、黄泉の国の穢れを落とすためのみそぎはらえをしたとされる『御池』(みそぎ池)がある。その時に産まれたのが天照大御神、須佐之男命、月読命である。また、祝詞に出てくる「日向ノ橘ノ小戸阿波岐原」の場所がこの場所であると云われている。かつては入江であったとされている。 そのため、この地は「禊ぎ発祥の地」「祝詞発祥の地」といわれている。 この地名は、全国の神社であげられる「祝詞」の冒頭でも「かけまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓えたまいしに」と読み上げられている。 神社の周辺には、憶ケ原遺跡と称する弥生時代全期に及ぶ遺跡が確認されている。神社の境内、特に神殿付近もまた弥生生時代の遺跡である。神殿附近には、多くの弥生式土器片が散乱し、この地に弥生文化の生活があつたことは勿論、弥生の神祀りの存在すら想像させる。 |
由緒 本神社は太古の御創建にして、その創立の年代は詳らかならざるも、此の地一帯は古来所謂日向の橘の小戸の阿波岐原として、伊邪那岐の大神禊祓の霊跡と伝承せられて、縁起最も極めて深き社ならむ。禊祓の際天照皇大神、月讀尊、素佐嗚尊と住吉三神の神々が御降誕あらせられたる霊域の地と伝え、則ち上代における中ツ瀬と称せる御池本社を去ること約五丁の東北に現存す。後、世人入江を開墾して江田と称し、里人俗に当社を産母様と称えて今日に至る。 54代(1143年前)仁明天皇承和4年丁巳8月官社に列せられ、55代(1126)文徳天皇仁壽元年辛未正月従四位下を授けられ、56代(1218)清和天皇貞観元年己酉10月従四位上に進められ、その後54代(1007年前)円融天皇天禄元年2月迄に天変地妖兵革等の年毎に敍位八回に及び、正一位に昇階ありしと云う。60代(1073年前)醍醐天皇の延喜年間に於いて、延喜式内社日向四座の一社として神明帳に登載せられ祈年新嘗の奉幣を承け居りしが、112代(320年前)後西院天皇寛文年間に神社の制度に変革を来し、ついに一村落の産土神と同様の取扱を承けるに至れり。 明治維新に際し、明治6年5月25日に社格県社に列せられ、同40年2月9日神饌幣帛料共進を指定されて今日に至る。 尚、当神社の御祭神は皆様ご存じのように、みそぎ祓の祝詞にあります諸々のお祓いの神でありますと共に、世の中で始めて夫婦のいとなみを始められた神でもあり、天照皇大神をはじめ月讀尊、素佐嗚尊、住吉三神の尊い神々の親神でもあります。古くより近郷近在の人々が当社を産母様(ヤボサマ)と尊称してお祓い縁結び安産の守護神として最も崇敬しているお社であります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
江田神社 阿波岐原みそぎ御殿由緒記 祝詞の「日向の橘の小戸の阿波岐原」また古事記、日本書紀などにあるこの阿波岐原とは、この一帯を指し遠い神代の地名が今も伝承されている所ですこの阿波岐原は伊弉諾尊が禊祓(心身を清めること)の際に畏くも天照皇大神を初め月読尊、素盞鳴尊と住吉三神がお生まれになった聖域です 昭和34年11月15日から12月9日に亘り大神の御神霊は「阿波岐原みそぎ殿を建つべし」との神託と御殿造営現地に誘導あり、これが神名ならびに御殿の、はじまりとなり昭和40年2月15日天府の宮みそぎ御殿は奉建されました この御殿の神域は、その昔禊祓された伊弉諾尊が神籠をたて茅の注連をめぐらし三-七-二十一日の間、天つ神の照鑑を仰ぎ給ひ祭祀神楽を執り行われた、尊とい霊跡である」と神語されています 即ち、この地は禊をすまされた伊弉諾尊が祭場を設けられ、そこに天つ神をお迎えして恭しくわが国の発展と国民の繁栄を祈願された所で住吉の由来がここに初めて明らかとなった真に由緒深き霊地であります また「御殿造営なりしときは伊勢神宮に迎えに来い」と神託を賜り、昭和41年3月12日伊勢神宮において厳かに神事奉楽ありて御神霊を拝受し、おまつりしてあります この神代霊跡の地に創建された御社には「天つ神、国つ神をはじめ全国の神々が神集う所」とも神語されており、神々のふるさと、みそぎ御殿は広大無辺の御神徳を垂れさせ給う尊いお宮であります 御殿造営にあたり畏くも天照皇大神の御神霊は次の神詠をお授けになりました 御殿造営前(昭和38年10月4日 於江田神杜社前) 阿波岐原ゆるぎなき世の礎を 閉ずともかたき岩戸や開かむ 心みそぎて岩戸開かむ ただきわみなる人の真心 御殿造営後(昭和41年1月22日於御殿前) 夜あけ鳥高らかに時つげぬ 岩戸開くは暁の神 なお、この一帯には前記みそぎの御池の他、天照山天孫ニニギノ尊の祭地ならびに日月天の祭祀地など御神霊の誘導により明らかとなった神代の霊跡があります 例祭日 4月3日 付記みそぎ御殿創建の儀ならびに神代霊地は、霞会伊藤ヨ子女史に天啓を賜り明らかとなったものです 由緒書 |
江田神社 江田神社由緒記 社名 江田神社 御祭神 伊邪那岐尊 伊邪那美尊(但伊邪那美尊ハ安徳天皇壽永二年正月配祀) 御祭日 例大祭十一月十二日 祈年祭二月十七日 新嘗祭十一月二十三日 大祓祭六月三日 特殊神事茅ノ輪潜リ 本神社ハ太古ノ御創建ニシテ其ノ創立ノ年代ハ詳カナラザルモ此ノ地一帯ハ古来所謂日向ノ橘ノ小戸阿波岐原トシテ伊邪那岐ノ大神禊祓ノ霊跡ト傳承セラレテ縁起最モ極メテ深キ社ナラム禊祓ノ際天照皇大神、素盞鳴尊ト住吉三神ノ神々ガ御誕生アラセラレタル霊域ノ地ト傳ヘ即チ上代ニ於ケル中ツ瀬ト稱セル御池本社ヲ去ルコト約五丁ノ東北ニ現在ス後、世人入江ヲ開墾シテ江田ト稱シ里人俗ニ當社ヲ産母様ト稱ヘテ今日ニ至ル 仁明天皇承和四年丁己八月官社ニ列セラレ文徳天皇仁壽元年辛未正月従四位下ヲ授ケラレ清和天皇貞観元年己酉十月従四位上ニ進メラレ其後丹融天皇天録元年二月迄ニ天変地妖兵革等ノ年母ニ敍位八回ニ及ビ正一位ニ昇階アリシト云フ醍醐天皇ノ延喜年間ニ於テ延喜式内社日向四座ノ一社トシテ神明帳ニ登載セラレ祈年新嘗ノ奉幣ヲ承ケ居リシガ後西院天皇寛文年間ニ神社ノ制度ニ変革ヲ来シ遂ニ一村落ノ産土神ト同様ノ取扱ヲ承ケルニ至レリ 明治維新ニ際シ明治六年五月二十五日ニ社格縣社ニ列サレ同四十年二月九日神饌幣帛料供進ヲ指定サレテ今日ニ至ル 社頭掲示板 |
江田神社 御創建は詳かではありませんが、平安時代に編纂された延喜式神名帳(927年)に記載のある日向国の古社であります。天つ神よりこの漂える国を修理固成(作り固めなすこと)せよとの命により国産み神産みをされた夫婦神であります。当社の鎮座地は伊邪那岐尊が黄泉の国から帰ってこられ、穢れを祓うために禊ぎをされたとされる場所であります。その際に多くの神様をお産みになったことから、厄除・安産・縁結びの御利益がといわれております。 祓詞 はらえことば 「掛けまくも 畏き伊邪那岐大~ 筑紫の日向の橘小戸の阿波岐原に 御禊祓へ給ひし時に成り坐せる祓戸の大神等 諸諸の祓戸の大神達 諸々の禍事 罪 穢有らむをば 祓へ給ひ 清め給へと白す事を 聞こし食せと 恐み恐みも白す」 伊邪那岐尊は禊をされる場所を日向の阿波岐原に定められ、多くの神様をお産みになりました。最後にお産みになられたのが、天照大御神、月読命、建速須佐之男命の三柱の神様。尊い三柱の神とのことで、三貴子(みはしらのうずこ)と言われております。 公式HP |
江田神社 祭神につき神名帳考証に「旧事記云、素盞鳴尊子五十猛神、亦云大屋彦神、次大屋姫、按屋與江音通」とあり、又神社覈録には詳ならずと見ゆ、本社創建年代詳ならず、延喜の制式内小社に列す、当国四座の一たり、続日本後記に、 「仁明天皇承和4年8月壬辰日向国宮崎郡江田神預官社」 と見え、三代実録に、 「清和天皇天安2年10月22日己酉授日向国從五位上江田神從四位下」とあり、太宰管内志に云く、「延喜式に日向國宮崎郡江田神社あり、江田は延陀とよむべし、名義は江田郷の地に坐すに因て負せたるべし、守麻呂云、江田神社は宮崎町より近し、大宮司亦下社家などもありて、一宮津野神社よりもうるはし、又彦山人云、宮崎郡江田神社今神武社といふといへり、当是云、江田神社といふ地名に因て負せたる名と聞ゆれば地名に因て定むべし、 良古云江田神社は今那珂郡にあり、宮崎郡堺より東五十町許にあり、幸丸云、江田村江田神社は邇々杵尊を祭ると云う、この社の北にあたりて、十七八町に神武天皇社あり、その西にあたりて、北方村ありて、其地方凡そ七八町ありといふ、この辺天皇の皇居なりと云、又江田村より半里に高屋神社あり、此社は松林の内にあり、その地古の高屋宮の跡ならむ、彦山人尋ねて云く、日向国宮崎郡江田神社佐土原より三里程南、上乙町より一里半ほど東に江田神社あり、神武宮とは別なり、有馬氏云、江田神社は檍原大明神と云、宮小社なり、神領十石余といふ、神は伊弉諾伊弉冉尊を祭れりといふ、」と、明治6年5月県社に列す、社殿は本澱、拝殿の外に物置所を有し、境内地4537坪(官有地第1種)あり。 明治神社誌料 |