都萬神社
つまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】都萬神社 日向国 児湯郡鎮座

   【現社名】都萬神社
   【住所】宮崎県西都市妻
       北緯32度6分55秒、東経131度24分15秒
   【祭神】木花開耶姫命
   【例祭】11月18-19日 例大祭
   【社格】旧県社 日向国二宮
   【由緒】承和4年(837)8月1日官社
       天安2年(858)10月22日従四位下
       応永20年(1413)造営
       永禄8年(1565)造営
       天正年間島津義久社殿改築
       慶長6年(1601)9月14日供田315石寄進
       明治6年県社
       明治40年神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】日下部氏
   【鎮座地】古くよりこの地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「妻萬宮」と称していた
   【公式HP】 都萬神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       祝詞殿・拝殿・神饌殿・神具殿・幣殿・手水舎・社務所

   【境内社】八坂神社・山神神社・恵美須神社・水神神社
   【境内図】 境内図

天孫瓊々杵尊(ニニギノミコト)と木花開耶姫が、日本最初の結婚式を挙げた神社とされる。周辺には、木花開耶姫命と瓊々杵尊が新婚生活を送ったという伝承地が残っている。
都萬神社は、現在発掘中の国府跡に近接しており、都萬神社に奉祀してきた日下部氏は、日向国守を務めていることから、極めて国府に近い関係にあったと思われる。


由緒

◎天孫降臨と都萬神社 恋にやさしい縁結びの神
当都萬神社は大山祗神の娘木花開耶姫命をお祀りする延喜式内のお宮で妻萬宮とも申します。天孫瓊々杵尊と木花開耶姫命が逢初川で見逢いされ、事勝国勝長狭神の仲人により日本最初の正式な結婚式が八尋殿で挙げられ、新婚生活を送られた処と伝えられ、サクヤ姫は結婚一夜にしてご懐妊されたので、天孫ニニギの尊ははたして自分の子供であろうか?と疑われたのを恥給い、木花開耶姫命は身を以て貞節を示さんものと〃無戸室〃産殿に火を放ち「もし貴方の子供でなかったら私は焼け死ぬでありましょう、貴方の子供であれは火に害のう事なく無事に生まれましょう」と誓いをたてられ、無事に三人の皇子(火闌降命、彦火火出見尊、火明命)をお生みになり女性としての純潔を示されたところと伝えられます。そのことは『日本書紀』に次のように記されています。
天孫瓊々杵尊曰く「汝は(サクヤ姫に対し)霊異しき威有し。子等復倫に超れたる気有り」と仰せになり木花開耶姫命をいたわり敬愛の情をお示しになっています。三皇子の御名は火の中でお生まれになったので火の字が附してあります。尚無戸室産殿でお生まれになった三皇子の産湯をお使いになった〃児湯の池〃が史跡として保存されています。
さて無事に御生まれになった三皇子をお育てになるに母乳で足りない分を補うため一方ならぬ御苦心の程が伺われます。西都原よりわき出づる水を利用して狭名田と言う細長い田を作り、その田の稲(お米)で甘酒えお造り、その甘酒を以て三人の皇子を御養育されたと伝えられています。都萬神社では今尚秋の大祭には必ず甘酒を神前にお供えしてお祭りをすることになっています。又『日本書紀』に木花開耶姫命「卜田を以て狭名田と曰う、その田の稲を以て天の甜酒を醸みて新嘗す、渟浪田の稲を用て飯に為しぎて新嘗す」とあります。是が地上における新嘗祭の起源ともなっています。甜酒美酒のことなりとあり、我国で始めてお米を以て造られたお酒の発祥地は西都市であり、木花開耶姫を祀る都萬神社であることが『日本書紀』により証明されています。都萬神社南西に当たる処に現に酒元と云う部落がありバス停留所もあります。
◎恋の願いが叶い良縁に恵まれる 特殊神事〃更衣祭〃
都萬神社の更衣祭は日本のお祭りの中でも最も珍しい祭典行事であります。祭神木花開耶姫命が天孫瓊々杵尊に逢初川のお見逢いによって長狭神の媒介によりお嫁入りされる時の古事そのままの姿をおつくりする神事で、晴れの婚礼衣裳をサクヤ姫の御神像にお着せ申し、白粉や口紅をつけ角隠しの帽子をかぶせ、花嫁姿になられる有様を生でじかに行うゆかしい神事であります。この神事が我が国婚姻儀礼のハジメであると社伝にあります。当日は午後三時まで全く可愛らしい清らかな姿を御神殿正面に御遷座申し上げ、その間一般参拝者に拝観が許されます。良縁に恵まれ仕合せな結婚が出来た人。又良縁に恵まれたい人の参拝が多く、殊にお母さん方のお参りが多いのは母親の愛情から女性の守り神として崇敬が厚いからでありましょう。青年男女のお参りは特に正月の年頭参拝は押すな押すなの盛況ぶりで最近は東京方面からの女性参拝も多くなっています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




都萬神社

皇孫御生誕の地西都の史跡 ●縫初川 天孫ニニギの尊が一日散歩されこの川の水汲に来られていた木花開耶姫命を見初められた処と伝えられます。 ●八尋殿 天孫ニニギの尊と木花サクヤ姫命との新婚生活のために造られた御殿跡と伝えられます。 ●無戸室 木花サクヤ姫命は一夜にして御懐妊されたのを疑われたので身を以って貞節を示さんもめと火を放ちて誓をたてられ無事三皇子をお生みになり女性の純潔を示された産殿跡。 ●児湯の池 ウツムロ産殿に於てお生れになった三皇子の産湯を使われた池と伝えこの地方を児湯郡と云う。 ◎天孫降臨と都萬神社
恋にやさしい縁結びの神
当都萬神社は大山祇神の娘木花咲耶姫命をお祀りする延喜式内のお宮で妻萬宮とも申します。
天孫瓊々杵尊と木花開耶姫命が縫初川で見縫され事勝国勝長狭神の仲人により日本最初の正式な結婚式が八尋殿で挙げられ新婚生活を送られた処と伝えられサクヤ姫は結婚一夜にして御懐妊されたので天孫ニニギの尊ははたして自分の子供であろうか?と疑われたのをはぢ給い木花開耶姫命は身を以って貞節を示さんものと"無戸室〃産殿に火を放ち『もし貴方の子供でなかったら私は焼け死ぬでありましょう、貴方の子供であれば火に害のう事なく無事に生れましよう』と誓いをたてられ無事に三人の皇子(火蘭降命、彦火火出見尊、火明命)を産みになり女性としての純潔を示されたところと伝えられます。そのことは「日本書紀」に次のように記るされています。
天孫瓊々杵尊日はく、「汝は"(サクヤ姫に対し)〃霊異しき威有し。子等復倫に超れたる気有り」と仰せになり木花開耶姫命をいたわり敬愛の情を持示しになっています。三皇子の御名は火の中でお生れになったので火の字が附してあります。尚無戸室産殿でお生れになった三皇子の産湯をお使いになった"児湯の池〃が史跡として保存されています。
さて無事に御生れになった三皇子をお育てになるに母乳で足りない分を補なうため一方ならぬ御苦心の程が伺われます。西都原よりわき出づる水を利用して狭名田と言う細長い田を作りその田の稲(お米)で甘酒を造り、その甘酒を以って三人の皇子を御養育されたと伝えられています。都萬神社では今尚秋の大祭には必ず甘酒を神前にお供えしてお祭りをすることになっています。又日本書紀に木花開耶姫命「ト田を以って狭名田と日う、その田の稲を以って天の甜酒を醸みて新嘗す、淳浪田の稲を用て飯に為しぎて新嘗す」とあります是が地上に於ける新嘗祭の起源ともなっています、甜酒美酒のことなりとあり、我国で始めてお米を以って造られたお酒の発祥地は西都市であり、木花開耶姫を祀る都萬神社であることが日本書紀により証明されています。
都萬神社南西に当る処に現に酒元と云う部落がありバス停留所もあります。
◎恋の願いが叶い良縁に恵まれる
特殊神事"更衣祭〃(7月7日夕祭)
都萬神社の更衣祭は日本のお祭りの中でも最も珍らしい祭典行事であります。祭神木花開耶姫命が天孫瓊々杵尊に縫初川のお見縫によって長狭神の媒介に依りお嫁入りされる時の古事そのままの姿をおつくりする神事で晴の婚礼衣裳をサクヤ姫の御神像にお着せ申し白粉や口紅をつけ角隠しの帽子をかぶせ花嫁姿になられる有様を生でじかに行うゆかしい神事でありますこの神事が我が国婚姻儀礼のハジメであると社伝にあります。当日は午後三時まで全く可愛らしい清らかな姿を御神殿正面に御遷座申し上げその間一般参拝者に拝観が許されます。
良縁に恵まれ仕合せな結婚が出来た人。又良縁に恵まれたい人の参拝が多く殊にお母さん方のお参りが多いのは母親の愛情から女性の守り神として崇敬が厚いからでありましよう。
青年男女のお参りは特に正月の年頭参拝は押すな押すなの盛況ぶりで最近は東京方面からの女性参拝も多くなっています。
  若草のつまのやしろは今も尚
    昔を偲び花嫁つくる

由緒書



都萬神社

この神社は天孫ニニギの尊の妃木花咲耶姫を祀り都萬神社または妻萬宮と申します祭神木花咲耶姫はオオヤマズミの命の姫君でニニギの尊との御結婚にはコトカツクニカツナガサの神が媒酌をとりもち日本最初の正式な華燭の式典を挙げられました。故に古来からこの結婚の喜びにあやかりたいと崇敬の厚いお宮であります祭神木花咲耶姫は青島神社のヒコホホデミの尊の母君鵜戸神宮のウガヤフキアエズの尊の祖母君にあたり宮崎神宮の神武天皇の曽祖母で日本民族の彌来をもたらせた国母神でありますから女性の守護神お産の神と敬い家内安全の祈願に参拝の多い神社であります。
西都原御陵参考地の正面にある女狭穂塚はこの神社の祭神木花咲耶姫の御陵とつたえられています。

社頭掲示板



都萬神社

宮崎県西都市大字妻。旧県社(現、別表神社)。 木花開耶姫命を祀る。創立年代不詳。『続日本後紀』によると、承和4年(837)8月朔、官社に預かっている。『三代実録』によると、天安2年(858)10月22日に従五位上から従四位下が授けられている。延喜の制(927)には小社に列し、祈年の国幣に預かった。中世には、妻宮,妻万宮・日向総廟五社大明神などと称され、武家、領主の尊崇が篤かった。建久の頃には、九八丁の神領を持っていたといわれる。天正年間、島津義久が社殿を改築したという。慶長6年(1601)9月14日、佐土原藩主島津氏は、供田三一五石五斗四升八合を寄進、神人三○戸を定めるとともに、年問七五度の祭祀を厳修させたと伝えられている。当社は、一ツ瀬州の中流域に発達した神社であり、この付近は、西都原古墳群で有名な場所である。またこの地には、国府が置かれ、その後、急速な発展を遂げた社である。鎌倉時代に入ると、日向国四式内社の中では、最も多く社領を持つようになり、その後、実質的には、最も実力のあった社となった。また往古、末社四四社、神官三○余家、社僧二家あったともいわれている。明治6年(1873)、県社に列格した。境内の大楠は、天然記念物に指定されている。例祭2月18、19日。神輿渡御の神幸があり、つくり人形や舞踏などの催しがあり、全市をあげてのにぎやかなものである。旧暦の7月7日には、更衣祭、旧暦11月2日には鎮火祭が行われる。当社は、また妻万の音読から「さいまん様」と称され、市民に親しまれている。

神社辞典



都萬神社

御創建の年代は定かではないが、当神社が初めて史書にみえるのは、「続日本後紀」で、仁明天皇承和4年(837)8月の条に「日向国子湯郡妻神宮社に預かる」とあり、また「三代実録」の天安2年(858)の条にも神階昇格の記載がある。更に延喜式神名帳には日向国4座の内、児湯郡2座として都農神社とともに都萬神社が記載されており、式内社といわれる所以である。当神社はこれらの文献にみえるより更に古く奈良時代には存在していたと思われる。建久年間(1190〜1199)伊東氏日向を領するや供田を献じて奉賽に務め、慶長8年(1603)島津以久公佐土原に封せられ4代藩主忠高は妻村内315石を社領として安堵するなど伊東氏に引き続き島津氏も都萬神社に対する尊崇の誠が示されており、往年の盛儀が偲ばれる。その後明治6年県社に列せられ、明治40年には神饌幣帛料供進指定を受けるなど古来からの尊崇は明治維新以後も衰えることはなかった。

公式HP



都萬神社

神名帳考証には「抓津姫命」とあり、創建年代詳ならざるも、社伝に云く、景行天皇日向國土蜘蛛を征し給ふ時、児湯県に行幸当社勅願し給ひしことを伝ふ、以てその太古の創建なるを知るべし、往時は妻萬宮、或は日向総廟と呼べり(太宰管内志、鹿藩名勝考、地理纂考)延喜の制式内小社に列す、続日本後紀に「仁明天皇承和4年8月壬辰朔日日向國子湯部妻神預官社」三代實録に「情和天皇天安2年10月22日授日向國従五位上都萬神從四位下」とあり、社領は建久図田帳に「妻萬宮領九十八町」と録す、後陽成天皇慶長6年9月島津氏祭田三百十五石余を寄す(太宰管内志■藩名勝考地理纂考)太宰管内志に云く、
「日向國人云、児湯郡妻萬村に妻萬宮とてある是都萬神社なり、木花咲也姫を祭ると云傅ふ、佐土原城主より神領三百十五石を寄附し給へり、(神官三十余家あり(中略)(此宮より半里許にして邇々杵尊宮ありきさして大なる社にもあらず横三間許にして舞殿、拝殿ありこの処より又半里許にして邇々杵尊木花咲也姫陵といふものありさて妻萬宮は佐土原の内邇々杵尊社は天領なれども毎年の祭には木花咲也姫神邇々芸命宮に御幸あり邇々芸命祭の時は開也姫社に御幸ありしを近世この事絶えて只社人ばかり往来することなり」 と、又笠狭大略記に云く、
「妻宮木花咲耶姫命、御崎ヨリハ艮ニ当テ十丁余ノ地ニ在座リ、マタ本ッ宮ノ地ハ是ヨリ北五丁ノ所嵯呼櫻ノ宮ト称ス、伝来ニ曰ク、天孫酒本ノ海濱ニシテ、御釣ノ御遊在座シケルトソ、今池上山ノ池中ニ於テ御釣ノ池ノ旧迹アリ、而ルニ又開耶姫命ニ於テハ妻苑ノ川ニ水汲ニ往給へルヲ、天孫姫ヲ見ソナハシテ叡慮ニカナハセ給ヘルヲ以テ、事勝神媒介シ給ヒ御后トシテ立セ給ヒタルトナリ、此ノ奮跡御釣ノ池ヨリ北一丁ノ所ニ於テ今愛初川ノ奮跡アリ、此所妻園トイフ、今コノ周流ハ公領ニシテ、コノ所五反歩計リノ飛地ト成リテ妻宮ノ卿社地タリ、亦吾国ニ於テ夫婦互ニツマトイへルモ此処ヨリ始ル卜云リ、而ルニ此命天下ノ美女ニ在座ガ故ニ、窈窕ナル御容貌ヲ櫻木ノ花二譬へ参ラセ、木花開耶姫命卜美称シ奉ルノ尊号ナリ、亦吾国ニ桜ヲ以テ花ノ王ト称スルコ卜モ命ノ御名ニヨルガ故ナリ、伝来ニ曰、天孫降臨在座ルガ放ニ御后ノ儲トシテ開耶姫生レ出給ヘリ、而ルニ亦地祇ノ御子ナルトキハ美ナリ卜雖モ、群ヲ離レ給フニアラズ、故ニ天女爰二降リ給ヒテ大山祇神ノ妻トナリ、生ミ給へル磐長姫開耶姫御兄弟ノ命ナリ卜云リ、亦花卜謂フテハ櫻ニ限ルモ、世ノ常ノ美卜謂ニハアラズ、其ノ霊妙ノ美ナル事此ノ命ニ限ルガ故ナリ、此故ニ亦花ノ王トス、夫吾国ノ花の花王ナルコトモ天孫ノ御世ニ於テ此ヨリ出タル古言ナリ、今花嫁卜云ル言葉モ此ニ自似リ奉レルナリ、夫妻ノ宮尊號ノコト斯ノ如シ、因之花王川花王馬揚コノ號卜モナリテ、御社地ニモ此ヲ植テ神木トシテ崇へルモコノ由緒ニ拠テナリ、亦花王宮ハ命ノ春ノ舎ナリ、故二花王田、花王街道、花王森コノ号ヲモ伝へ、御腰掛ノ石マデモアルコトハ春ノ花ノ時二於テ爰ニ御遊ビ給ヘバナリ、亦后宮一人御覧セルノ花ニハ非ズ、故ニ此道筋ニ今日ノ道卜唱フル処ノ地名遺レリ、此則大君ノ行幸ノ道筋ナル故ナリ、尚花王田ノコト一般ノ旧迹ニシテ伝説等モアルコトナガラ爰ニ略キヌ、然ルニコノ地妻邑ト称シテ上妻、中妻、下妻卜三所ノ號アリ、此上妻ノ地二鎮座在座ス、亦御社地妹田卜称スルコトハ此神前ニ妹田ノ御田アリ、御妻ノ命ナルコ卜ヲ妻宮卜崇敬成シ奉レルノ宮号ナリ、云々」
と見ゆ、往時は末社四十四社、神官三十余家、社僧二家ありきといふ(太宰管内志、■藩名勝考、地理纂考)、その盛大想見すべし、明治6年県社兼郷社に列せらる、社殿は本殿、舞殿、祀詞殿、神饌殿等を具備し、境内4096坪(官有地第一種)あり、境内老樹鬱蒼として四面を囲み、東西に櫻川の清流を帯び、南西に桜馬場あり、その西側に小池あり、紅白の蓮多し、春夏の候風光殊に佳なり、笠狭大略記に曰く「妻宮の御池花王川の流れに在て片目の鮒魚生ずるなり伝来曰開耶姫命御池に臨て御遊給ふ然るに命の玉の鈕落て鮒の目を貫けり爾来今に片目の魚生ず亦これを眷属と称すこれよりして玉鈕落の三字を以て布那と訓るは此地に於て傅来の文宇の訓なり」と、宝物には景行天皇土蜘蛛征討の際奉納し給ひしと伝ふる御劒あり。

明治神社誌料



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