都農神社
つのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】都農神社 日向国 児湯郡鎮座

   【現社名】都農神社
   【住所】宮崎県児湯郡都農町川北13294
       北緯32度15分47秒、東経131度33分31秒
   【祭神】大己貴命
   【例祭】12月4-5日 例大祭
   【社格】旧国幣小社 一の宮
   【由緒】推古天皇の御宇秦河勝が奉勅奉献
       承和4年(837)宮社に列
       承和10年(843)9月13日従五位下
       天安2年(858)従四位上
       天正6年(1578)大友宗麟の日向侵入の兵火で焼失
       延宝3年(1675)頃零落僅の小社となり明神とのみ称
       元禄5年(1692)4月高鍋藩主秋月種政によつて再興
       元禄14年(1701)9月28日二十石寄進
       明治4年10月国幣小社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「吐乃大明神」と称していた
   【公式HP】 都農神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・神饌殿・神具殿・幣殿・社務所・神符守札授與所・手水舎・一宮福徳寮

   【境内社】手摩乳神社・足摩乳神社・素盞嗚神社・稲荷神社・愛宕神社
        熊野神社・瀧神社・都農祖霊社


神武天皇が東征に際して、武運を所り、神祭りされた所が、当社の地であると言う。
神武天皇の祀られた神を、神功皇后が勧請し、新羅征討から御帰国後、その地都農に神社を創建されたとする。


由緒

都農神社は古来日向国一之と称え、御祭神は御神徳の高い大己貴命(又の御名大国主命)を奉斎する古社であります。当社の縁起によれば、神武天皇御東遷の砌、宮崎の宮を御進発になり、途中此の地において国土平安、海上平穏、武運長久を御祈念の為、御親ら鎮祭されたのを当社の創祀と伝えます。その後歴代皇室の尊崇篤く、第54代仁明天皇の承和4年には官社に列せられ、同10年神階の宣授があり、第56代清和天皇の天安2年神階従四位上を奉られ、第60代醍醐天皇の御代、延喜式神名帳には日向国児湯郡都農神社と撰録せられ、日向国式内社の一つとして登載された日向国一之宮であります。
当神社の旧記によれば、往古は日向国第一の大社として社殿壮大、境内広闊で第三鳥居は十五〜六丁、第二鳥居は六〜七丁の間に亘って建立せられた古跡が今尚認められ、天正年間大友、島津両武将の争乱に遭い、社殿兵火に罹り、累生秘蔵の宝物、古文書等烏有に帰し、以来社殿境域次第に縮小の止むなきに至りました。
明治天皇御践祚に際し、王政復古、百度維新に従って神祇を崇め、祭祀を重んずるの大典を挙げ給う。茲においてか当社は明治4年5月15日県内他社に先んじて国幣社に列せられたのであります。昭和9年神武天皇御東遷2600年記念式典に当り、記念事業として奉賛会を組織し境内の拡張整備を行い、概ね現今の深厳なる御社頭の状態を仰ぐに至り、御神威愈々釈然たるを覚ゆる次第であります。
御祭神大己貴命は国土開発、殖産農耕に特に勲功高くましまし、武神としての霊徳は申すまでもなく、漁業航海守護の神、交通安全守護の神更には医療の神、縁結びの神、子孫繁栄、福徳円満の守護神として古来地方民の信仰をあつめた御社であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




都農神社

創建の由来
創建されたのは御即位6年前の神武天皇が宮崎の宮を発し東遷の折、此の地に立ち寄り、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念し御祭神を鎮祭された事と伝えられる。
旧記によれば、日向国の第一の大社であったが、天正年間の島津・大友の争乱の際、大友氏の兵火により社殿・宝物・古文書等全てを焼失したものの、御神体は尾鈴山麓の神社に避難され難を逃れた。争乱後は長年社殿の再興も無く小さな祠があるのみであった。元禄5年に秋月藩主 秋月種政が再興し、安政6年には篤志家の社殿の寄進があった。その後、社殿の老朽化に伴い平成14年に「御造営奉賛会」が設立され、平成19年7月7日に現在の社殿が竣成されたのである。
御 神 徳
大己貴命 ( 大国主命 ) は多くの妃を娶り、その妃等との間に多くの御子をもうけました。その謂れから縁結びの神とも子孫繁栄(子授け)の神とも云われる様になりました。また医療の法を定め多くの人々を助けた事により、医療(病気平癒)の神とも云われ また少彦名命と共に力を合わせて多くの人々と交わり、次々と国造りをされた事により、事業開拓(商売繁盛)の神と云われる様になりました

公式HP



都農神社

西は尾鈴山、東は日向灘に面する都農川流域宮野尾の国道十号線沿いに鎮座する。地内名貫川上流の尾鈴山中には尾鈴山瀑布郡があり、国の名勝に指定されている。
都農神社は古来日向国一之宮と称え、ご祭神はご神徳の高い、大己貴命(またの御名大国主命)を奉斎する古社である。
当社の縁起によれば、神武天皇が御東遷の砌宮崎の宮を御進発になり、途中此の地において、国土平安、海上平穏、武運長久をご祈念の為、御親ら鎮祭されたのを当社の創祀と伝える。
その後歴代皇室の尊崇篤く、第54代仁明天皇の承和4年(837)には「都農神」として妻神、江田神、霧島岑神とともに官社に列せられ、同10年神階の宣授があり、第56代清和天皇の天安2年(858)神階従四位上を奉られ、第60醍醐天皇の御代、『延喜式』神名帳には日向国児湯郡都農神社と撰せられ、日向国式内四座の一つとして登載された日向国一之宮である。
旧記によれば、往古は日向国第一の大社として社殿壮大、境内広濶で第三鳥居は十五〜十六丁、第二鳥居は六〜七丁の間に亘って建立せられた古跡が今なお認められる。天文18年(1549)に都於郡城主伊東義祐が社殿を造営したが、天正年間大友、島津両武将の争乱に遭い、社殿は兵火を罹り、累世秘蔵の宝物、古文書等烏有に帰した。元和元年(1615)には、昔のおもかげなしという見聞者の記録がある。その後、高鍋四代藩主秋月種政が元禄5年に再興し、同14年には知行二十石が寄進された。元文、安政年間にも改築がなされたが、社殿神域とも縮少の傾向にあったという。
明治天皇ご践祚に際し、王政復古、百度維新に従って神祇を崇め、祭祀を重んずるの大典を挙げ給う。茲においてか当社は明治4年5月15日県内他社に先んじて国弊社に列せられたのである。
昭和9年神武天皇御東遷2600年記念式典に当たり、記念事業として奉賛会を組織し境内の拡張整備を行い、概ね現今の深厳なる御社頭の状態を仰ぐに至り、ご神威愈々赫々たるを覚ゆる次第である。

宮崎県神道青年会



都農神社

都農神社ハ一ニ宮崎社トモ称ス、日向國児湯郡都農村ニ在リ、大己貴命ヲ祀ル、當國ノ一宮ニシテ、仁明天皇ノ朝、官社ニ列ス、現今國幣小社タリ、

古事類苑



都農神社

都農神社 つのうじんじや 宮崎県児湯郡都農町川北。旧国幣小社(現、別表神社)。大己貴命を祀る。当社の創祀は、神武天皇が日向国宮崎の宮を発幸し、大和国に向かわれる時、この地に賊徒征伐祈願のため、鎮祭されたに始まるという。『続日本後紀』の承和4年(837)8月朔の条に官社に預かったことが記され、同10年9月19日の条に、無位から従五位下が授けられている。また『三代実録』の天安2年(858)10月22日の条には、従五位上の都濃神に従四位上が授けられた。『延喜式』(927)にも登載され、当時は、日向国第一の神社で、一の宮であった。この社が、当時日向国の国府近くに鎮座する都万神社(式内社)より神位が高く扱われ、一の宮となった背景を、債極的に示す資料はないが、神徳の面で、疫病特に疱瘡を患う者に対し、神験のあった旨の伝えがあることも一考に値するであろう。また北の豊後国から、日向国に入る官道に沿い、日向国の四つの式内社中、最も北に位置すること、他国から船で日向国に入る場合、美美津に着くが、そこから官道を少し南下した所に位置すること等の地理的条件が並因と考えられる。天正年間には、豊後國大友宗麟が日向国に乱入、其時、神官神璽を守護し、兵火の難を尾鈴の山中都農崎という所に避けて潜居、兵乱が治まって後、再びもとの地に祀ったという。
『和漢三才図絵』にも「都農大明神」と見えている。明治4年(1871)国幣小社に列せられた。例祭12月5日。夏祭8月1、2日。冬祭12月4、5日。

神社辞典



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