往古宗像氏族が氏の神である三女神を奉齋して、九州から海路この地に来着し、宗像地内の宮ノ谷山頂に宗形神社を創建したものと伝えられている。 弘治2年(1556)に尼子晴久が現社地に奉遷するまでは、現社地の北330mの宮ノ谷に鎮座していた。 古くは米子駅附近が海岸線であつたと考えられ、海岸近くに鎮座していたと思われる。 創立時期は5世紀後半から6世紀初頭と考えられる。 |
由緒 宗形神社由緒略記 1.伝承による由緒 当神社の創建年代は不詳であるが、往古、宗形氏族が海路この地に来着して居を定め、その祖神である三女神を奉斎して、神社を創建したものと伝えられている。祭神御着船の地は、米子市長砂町小林(当時この辺りは入江であった。)であって祭神の御乗船はのちに石に化したと伝えられ、この所を御船塚と称していた。この船塚は、明治の末頃には、茅などの生えた百坪ほどの広い砂丘であったものが、昭和の始め頃には、田圃の中に、一抱えほどの石のある葦などの生い茂った、一坪ばかりの砂地として残されていたが、終戦後切り崩され、更に埋め立てて宅地とされ、今では何等昔をしのぶよすがもない。 2.国史・文献による由緒 文徳実録ー平安朝初期の斎衡3年(856)に、宗形ノ神に神位従五位上が加上されたことが記されている。当時宗形神社は、大神山神社と供に、当地方の大社として上下の信仰が篤かった。延喜式ー醐醍天皇の延喜22年(922)に勅撰された、延喜式神祇の巻に、伯耆国の六社として、会見郡から、胸形神社と大神山神社の二社のみ国幣の小社として所載されている。神祇管領の勘文ー神祇管領ト部兼文が奏上した勘文に、宗形神社は伯耆国の第三鎮守である旨が記されている。以上の如く、宗形神社は平安朝の初期から国史に所載されており、千数百年の歴然たる歴史と伝統を有し、その御神威は赫々と当地を照らしつヽ今日に至っている。 2.武将等の崇敬−戦国時代になってからは、尼子・毛利・中村氏等の崇敬篤く、特に尼子晴久は、弘治2年に社地を宮ノ谷から現在地に移して社殿を建立し、社領三百石を寄進・吉川元晴は、更に社領一二〇石を加増寄進すると供に、太刀及び兜を奉納した。又中村伯耆守も社殿修造用材百本を寄進している。鳥取藩主池田氏は、当社を祈願所に指定し、祭礼には必ず幣使を参向させ、当時では、容易に許されなかった境内取締りの禁制の制札建設を、正徳5年に裁許し、池田家の家紋を幕・灯燈に使用することをも許された。更に池田慶徳候は、明治3年、自ら当社に参拝し、金百疋を献納するなど、武将や藩主の崇敬が極めて篤かった。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
宗形神社 宗形神社 鳥取県米子市宗像二九八番地鎮座 一、御祭神 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命 ほか十八神 *三女神は天照大神・素盞嗚命の御子神 一、祭 日 例大祭 5月3日 例 祭 11月3日 歳旦祭 1月1日・大祓祭 7月31日・新嘗祭 11月23日 一、由 緒 ・ 創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている。 ・ 平安初期の斉衡3年(856)に宗形の神に神階五位上が増叙された旨、文徳実録(日本六国史の一)に所載されている。 ・ 醍醐天皇の延長5年(927)に勅撰された延喜式神祇の巻に、伯耆国六社(会見郡では胸形神社と大神山神社)の一として、国幣小社に列格されている。 ・ 戦国時代には武将の崇敬篤く、尼子晴久は、弘治2年(1556)に、宮ノ谷の山頂に鎮座していた社を現在地に遷して新しく社殿を建立し、社領三百石を寄進した。吉川元春(毛利元就の二男)は、更に社領一二〇石を加増寄進すると共に、太刀及び兜(典型的桃形の逸品で社宝として所蔵)を奉納した。中村伯耆守は、社殿修造用材百本を寄進した。 ・ 蕃政の世には、歴代の因伯藩主の崇敬篤く、当社を蕃の祈願所に指定し、制礼の建立や池田家々紋を幕・提灯に使用方を裁許し、池田慶徳は自ら社参祈願を行った。 ・ 社名は、宗形(文徳実録)、胸形(延喜式)、宗像(明治初年まで)、宗形(明治四年以降)と変遷を重ねて現在に至る。 一、御神徳 延喜式内郷社宗形神社は、平安の古より国史、文献に名を連ね、千数百年の歴史を有する当地方の古社であり、会見郡の鎮守宗像庄の大社として尊崇され、海陸交通・厄除開運の守護神として御神威高く、又虫封じの神としても霊験顕著でその名が高い。 一、神社と古墳 神社を中心として周辺に密集分布する宗像古墳は、県下有数の古墳群であるが、これは当地方が、古くから神社との関り合いの中で生成発展して来たことを物語るものであり、往古の社会・文化探求上で重要遺跡として斯界の注目を集めている。 社頭掲示板 |
宗形神社 創立年代詳ならざれども、文徳實録に齊衡3年8月乙亥加伯耆國從五位下宗形神從五位上とあり、又延喜神名式に伯耆國倉見郡胸形神社とある旧社にして、古來上下の崇敬殊に篤く、弘治2年尼子晴久社殿を建立し社領高三百石を寄進せりといふ、其の後吉川元春右の社領の外に百二十石を寄進し、大刀二振兜一刎を寄進せしが、中村伯耆守一忠當國を領するに及び社領悉く没収せらる、旧藩主池田慶徳幕提燈を寄進せられ、慶応3年には親しく参拝せらる、旧藩時代には社殿の修理営繕に際しては曾見郡内の高割を以てなせり、明治初年郷社に列せられ、同40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる古昔鎮座の地は現社地より北三丁余の宮の谷といふ所にして本宮と呼ぶ、本殿ありしと傳ふる山頂の地には数多の小石あり、中腹に清泉ありてごふ井戸といひ断水することなし、弘治2年4月現社地に奉遷せしものなり、大正6年4月3日成実村大字日原字中尾山鎭座無格社住吉神社(祭神表筒男命、中筒男命、底筒男命)同村大字石井字要害鎮座無格社石井神社(祭神誉田別尊)同村大字奥谷字谷奥山鎮座無格社熊野神社(祭神伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日霊尊)同村大字美吉字奥屋敷鎖座無格社上飯生神社(祭神素盞鳴命)同村大字同宇屋敷前田鋲座下飯生神社(祭神大国主命)同村大字長田字笠頭鎮座無格杜陽田神社(祭神素盞鳴命)の六壮を合併す。 古昔当社の祭神今の大字長田に(宗像と隣接せる所にして當時この邊迄入海なりしと云ふ)海路御來着宗像の地に鎮座せられしと云ひ。御着船の地を今に船塚と称へ御舟は石に化したりと云ひ伝ふ。 鳥取県神社誌 |