倭文神社
しどりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】倭文神社 伯耆国 久米郡鎮座

   【現社名】倭文神社
   【住所】鳥取県倉吉市志津209
       北緯35度23分38秒、東経133度45分22秒
   【祭神】経津主神 武葉槌命 下照姫命
       (合祀)伊弉諾命 伊弉册命 譽田別命
       「天羽槌雄命」『神名帳考証』・『神祇志料』
       「天羽雷命」『神祇宝典』
       「建羽雷神」『特選神名牒』

   【例祭】4月19日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創立の年代不詳
       嘉慶2年(1388)国主山名時氏社殿建立
       永享10年(1438)山名刑部大夫造営
       天正2年(1574)南條宗勝社殿建立社領寄進
       慶長年間(1596−1615)米子城主中村一忠社領没収
       寛永5年(1626)造営
       天和3年(1683)造営
       正徳5年(1715)地頭高木長兵衛社殿建立
       享保19年(1734)造営
       宝暦2年(1752)社殿造営
       明治4年郷社
       明治40年2月3日神饌幣帛料供進神社指定
       昭和17年5月2日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「志津神社」「志津大明神」「三宮明神」と称していた
   【社殿】本殿春日造
       幣殿・拝殿・随神門・手水舎・社務所・神輿庫

   【境内社】荒神社

往時この一帯は日本古来の織物、倭織の盛んな地であった、当社は倭文神として機織の祖先武葉槌神を祀ったことにより創祀された。この地は経津主神が出雲御出征の時、御陣営に当てられし地で当社は其の神跡であると伝わる。


倭文神社

倭文神祠脩造記碑
祠在伯耆東伯郡北谷村志津里祀
天葉槌雄命配享
武甕槌命経津主命下照姫命後配
伊弉諾伊弉冉誉田別國狭槌四尊上古貌矣未知其何年創建而配享考之傳記蓋数百千年外之旧尽兵農妊娩等幅利莫析而□験是以上下貴賎信奉崇敬尤盛蔚爲邦家之鎭年久祠朽且境域降陋祠祝永江重規常歎以爲此非所似対揚神徳也勧募義士首唱脩造義士翁然子來献財致力破者補之廃者興之拡其域崇其土高大其門庶増構其所不敷起於大正九年五月竣於昭和二年四月閲年ハ役入六百爲費六千余圓殿廊宏敵□壁清新府庫厨竈無所不備廟貌改観而神威益揚工既成落廃旦有日重規時既揖館嗣祝重猷奉遣志樹碑記之属謙援筆謙本村産也以肖之脇而幸能成立荷今日寵榮蓋頼有斯神呵護旦重規神徳対揚之功亦不可没則記碑之属安可以不文辞也於是乎記
昭和七年十二月
正四位勲四等細田謙敬撰弁書
建碑関係者 社司 横山清重
      社掌 永江重猷

社頭石碑



倭文神社

式内社
伯耆三ノ宮 倭文神社
主祭神
経津王神(ふつぬしのかみ 武勇の神)
武葉槌神(たけはつちのかみ 機織・織物の神)
下照姫神(したてるひめのかみ 安産の神)
相殿神
伊弉諾命 伊弉冊命 誉田別命
例祭日 4月29日(昭和の日)
創立年代は不詳であるが、当社は延喜式神名帳(西暦927年平安時代)記載の神社(式内社)であって、古くは志津大明神又は三ノ宮志津大明神とも称した。
神階は高く、往古より武門武将の崇敬篤く、庶民の信仰また盛ん、中世には国主山名氏、吉川氏、南條氏などに崇敬され、社殿の建立、社領の寄進を受けたが、慶長年間、中村伯耆守により社領を没収された。江戸時代に入っては藩主の尊信篤く社殿の建立・修復、社領の寄進が行われ、池田家の祈願所として隆昌を極めた。
鎮座地の志津は社号の倭文と同じである。
倭文とはシヅオリのつまった形で、シヅは「日本古来の文様」、オリは「織り」であると言われる。したがって、倭文は日本古来の織物を意味し、読みはシヅオリがシヅリ・シドリに、さらにシヅへと転じたものであろう。(古くは清音)
往時この一帯は日本古来の織物、即ち倭織が盛んであったという。
このことからして当社は、この地に移り住んだシヅオリを業とする技能集団、「倭文部」の一族が氏神として機織の祖神「武葉槌神」をお祀りしたのに起因することは明らかである。やがてその里がシヅ(志津)となったものと考えられる。
又、経津主神(一説には武葉槌神とも)が中津国平定の詔勅により出雲へ進発の時、御陣営を堅められたのがこの地で、当社はその神跡であると伝えている。当社より北200m余の地に「神津井」と称する井がある。往昔、諸神の軍営中飲料に当てられたとされる井で、今も祭事には神水として神前に供している。
往昔より祭礼の際、室町時代の軍神祭の様式に倣った神幸式が行われたが、幾多の変遷を経て江戸時代の末期再興、大名行列の様式になり今日に至っている。
明治4年郷社に列し、大正2年近在の四社を合併、昭和17年県社に昇格、昭和30年福富神社が分離、御祭神は、六柱となる。

社頭掲示板



市指定無形民俗文化財 倭文神社大名行列

所在地 倉吉市志津
指定年月日 平成23年6月7日
倭文神社大名行列は、倭文神社の春の例大祭に、その氏子によって奉納される神幸式の行列である。起源は不明であるが、毎年春の例祭時に神輿渡し式が行われていたと伝わり、これが転化したものとされる。一説によると、江戸時代の終わりごろ羽熊・槍・鉄砲・弓などの用具を整え、大名行列の様式を取り入れたという。
明治15年(1882)に拝殿建立を記念して御幸式を復活し、昭和13年(1938)の県社昇格の内定決定に合わせ行列道具の充実が図られた。平成の初めから毎年4月29日「昭和の日」に実施される。
行列は、神輿行列の先触れとして神社境内から御旅所(御幸地)までの行進である。
その構成は、先払い(鼻高)一人.御旗(銘旗)一人.榊二人.小旗一人.先箱一人・槍二人・弓負四人・鉄砲六人・旗負五人・奴十人(立傘二人・台傘二人・小羽熊二人・大羽熊二人・対槍二人)の順で列を整えて並び、神輿を先導する。
行列舞は、先箱の「エーヨイヤナー」の掛け声で始まり、続く子供たちの「オーイ・オーイ」の掛け声とともに足で土を均す所作踊りである。また太鼓・笛の音に合わせ青年の奴の五組十人が向かい合っての受け渡し舞を繰り返す。

社頭掲示板



倭文神社

創立年代不詳、文徳天皇斉衡3年8月從五位上を授けられ、延喜の制小社に列す朱雀天皇天慶3年9月從三位倭文神に正三位を授けらる(本郡には同神ありて神階のことは何れの神社を指せるにや詳かならず)鎮座地志津ば社号の倭文と同一なり、随つて察神倭文神武葉槌命を祀れることより起因せること明かなり、後世に至り志津大明神とも三ノ宮志津大明神とも称したり、往古より武門武將の崇敬厚く多くの社領を有したり八町四方の御免地(神楽田、御供田.籠多王殿、カワケ多、行田、使者田、神田、神主屋敷、燈明田、山田、橘、王代、祭所)今尚字に残れり、嘉慶2年国主山名時氏社殿を建立し、社領十八町歩寄進あり、其の後吉川駿河守元春社領を再輿す、天正2年南條豊後守宗勝の祈願所として社殿を建立、社領をも寄進す、慶長中中村伯耆守社領を没収す、寛永5年松平勝五郎内高木齊宮建立天和3年松平相模守光仲金百疋直納、御公儀より玄米十五石竹百束人夫五十人被遣本殿建立、正徳5年地頭高木長兵衛社殿建立爾後歴世太守の祈願所として毎年神札を直納せり、寛永元年には官許を得て豪族の拝殿建立あり、享保16年伯耆一國の勧化を以て各大庄屋崇旨庄屋は普く郡中の信仰に訴へ社殿造営さる、宝暦2年3月にも同じく伯耆一國の勧化に依りて社殿を造営す、明治4年郷社に列す、明治40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、大正2年12月北谷村大字福本字峯鎮座村社福本神社(祭神誉田別命)同村大宇尾田字中峯鎮座村社尾田神社(祭神伊弉諾命)同村大字福本字峯鎮座村社新宮神社(祭神伊弊册命)同村大字福富字クラヤ鎮座村社福富神社(祭神国狭槌尊)を合併す。

鳥取県神社誌



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