八重事代主命は大国主命の御子神で、国土経営の為此の地巡事の時、当社西方「ワタラガヒ」の地に上陸され当地方の開拓殖産に務められた、その荒神魂は青柴の巻籬内(今槙ケ木の字を充てる)に鎮まった。これが当社鎮座の根源である。 祭神・事代主神が国譲りの際に、「天逆手」を打って、青柴垣に籠ったという、その宮であるという。 当社は、社名より考えると、伯耆国の総氏神的な地位にあつたと思われ、現在も、伯耆国造の子孫であると思われる「波々岐氏」「伯耆氏」を祖先とする船越氏が104代以上継続して奉仕をしている。 祭神「伯耆神」は、伯耆国造の祖先神「天穂日命」の奉齋する神「事代主神」であると思われる。 |
由緒 式内社 伯耆神社 波波伎神社由緒 伯耆二の宮 (旧県社) 八重事代で主命は大國主命の御子神で、國土経営の為此の地巡事の時、当社西方「ワタラガヒ」の地に上陸され当地方の開拓殖産に務められ、天孫降臨に当っては父神にすすめて恭順潔く國土を奉献して誠忠を儘され、父神に対して孝道を全うせられ献國後も永く皇室の護り神と成られました。其の荒神魂は青柴の巻籬内(今槙ケ木の字を充てる)に鎮まりました。之が当社御鎮座の根源である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
福庭古墳 古墳時代後期の古墳で、横穴式石室を埋葬施設としている。墳丘は直径35m、高さ4mの円墳。石室は、全長9.5m、幅2.2m、高さ2.3mの規模。奥壁と側壁に大きな切石を立て、一枚石の天井石を置いている。遺体を安置する玄室に入ったところに石を横長に立てているが、これは安置場所を区画する石障と考えられている。石室入口(玄門)の天井石には、扉を観音開きに開閉する時に都合のよい感じの段がつけられているが、装飾のためと思われる。なお、奥壁の一部などに赤色顔料が残り、装飾古墳の可能性がある。7世紀前半代の築造と推定され、鳥取県における古墳の終末段階を代表する古墳である。 鳥取県教育委員会 倉吉市教育委員会 社頭掲示板 |
波波伎神社 伯耆神は國造り坐し、大国主大神の御子事代主大神なり、御鎮座の由來は天祖天照皇大神此豊葦原の瑞穂の國は皇御孫命の天壊無窮に可治國と、武甕槌、経津主の二神を出雲国に降し給ひて大国主神に国譲の諾否を問はせ給ふに、吾者不答我子事代主神答ふべきも、今三穂崎に在りと、則天鳥船命を使はし召し来て問はせ給ふに、此豊葦原の國は皇御孫命の可治國と父を諫め位を退り國をば譲らしめ、己も天使の旨を諾ひ給ひ、天夷鳥命の子国夷鳥命に手組ましめ一ツ木の神玖四浮根に座し、船足を此の青柴の巻籬内にと踏方向けしめ來入座て宣曰、吾心清清志幾世福庭曾此青柴の彌継々に榮ゆく如く皇孫命の大御代は榮え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天榮手を青柴籬に拍誓て御隠座し、天栄手の宮なり、仁明天皇承和4年2月從五位下に叙す、文徳天皇齊衛3年8月正五位下に加ふ、清和天皇貞観9年4月正五位上に進む、延喜の制小社に列す、平城天皇大同3年(大同類聚方)に伯耆神は延喜式伯耆國川村郡波波伎神社当国國造祀神を祭る伯耆藥は伯耆国川村郡波波伎神社に傳ふと、天文12年雷火の為に焼失、寛永5年迄165年間小祠にてありしが産子伊藤孫左衛門発願祠を建立す、後169年を経て明治10年5月産子福井善十郎今の祠を建立す、其の昔天文年中迄は祭式判然として見ゆ衆人二宮と崇敬す、境内に古墳あり、明治2年郷社に列す、明治40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、大正5年3月31日下村大字海田宇坂根鎭座村社海田神社(祭神狭依比売命、多紀理比売命、多岐都比売命)を合併、昭和4年8月13日縣社に昇格す、当社の社叢は天然記念物として指定せらる。 鳥取県神社誌 |