境内に接する川流は聖地で、往古より神士之瀬・鮎返の下に至るまで殺生禁断とされていた。 そしてその最要所が祭神垂跡のところといふ淀姫淵、一名よどめが淵であつた。これは恐らく境内に近い川淵であつたと思われる。 嘉応2年(1170)の記録には、境内に本殿が記されていない。本来は、川そのもの、あるいは、淵を拝するものであったと思われる。 |
与止日女神社 與止日女神社略記 一、 鎮座地 佐賀郡大和町大字川上一番地 一、 御祭神 與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。 一、 御神徳 海の神、川の神、水の神として信仰され、農業をはじめ諸産業、厄除開運、交通安全の守護神 一、 由緒 欽明天皇25年(564)創祀され、延喜式内社で、のち肥前国一の宮と崇められ、弘長元年(1261)正一位を授けられた。 朝廷の御崇敬あり、また、鎌倉幕府をはじめ武門、領主、藩主の尊信を受けた。 明治四年県社に列す。 一、 祭日 春祭 4月18日 秋祭 10月10日 新嘗祭 12月18日 一、指定文化財 河上神社文書 国重要文化財 247通 西門 県重要文化財 元亀4年(1573)造立 三の鳥居 慶長13年(1608)初代藩主鍋島勝茂寄進 平成元年1月 大和町 |
与止日女神社 河上神社金精さん由来記 自然石又はこれに人工を施した男根、女陰の形をしたもので男性、女性の象徴を神として祭ったのが古い昔から日本の特に僻地山村に多く見られるようである。金精さまは本来性の神で、それが生産神となり所によっては邪悪の神を塞ぐ塞神としても祭られた。形からみて初め、庶民の縁結びの神、性病平癒祈願の神、子宝の神として信仰があった。 その昔神功皇后三韓征駐の折り当地におとどまりんあされし妹君の与止日女様が子宝に恵まれぬためにひそかに館の一隅にあった男根の自然石に肌をふれて子宝を願ったところ、色あくまで白く、きめこまやかにして玉の如き子供が授かったという。以来金精さんとして河上神社の一隅に安置してありましたが今度皆様の要望により一般に公開致します。 平成元年2月 佐賀大和町観光協会 社頭掲示板 |
与止日女神社 ●鎮座地/ 佐賀郡大和町大字川上一番地 ●御祭神/ 與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。 ●御神徳/ 海の神、川の神、水の神として信仰され、農業をはじめ諸産業、厄除開運、交通安全の守護神 ●由 緒/ 欽明天皇25年(564)創祀され、延喜式内社で、のち肥前国一の宮と崇められ、弘長元年(1261)正一位を授けられた。朝廷の御崇敬あり、また鎌倉幕府をはじめ武門、領主、藩主の尊信を受けた。明治4年県社に列す。 別名・河上神社、俗に「淀姫さん」とも呼ばれている。 公式HP |
与止日女神社 嘉瀬川は、川上川とも呼ばれ、肥前国風土記では佐嘉川。 当社の側を流れる流域は聖地とされ、殺生禁断でした。 特に、ナマズは祭神の使いとして、土地の人は食べないそうです。 肥前国風土記に、以下の記述があります。 「此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。 海の神鰐魚を謂う年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従ふ。 或は、人、其の魚を畏めば殃(わざわい)なく、或は、人、捕り食へば死ぬることあり。 凡て、此の魚等、二〜三日住まり、還りて海に入る。」 この魚がナマズと考えられているようです。 川上川の上流には、淀姫淵・明神淵・弁財淵など、古代祭祀遺跡らしき場所が多く存在しています。 公式HP |
与止日女神社 欽明天呈25年(564年)に創祀され、『延喜式神名帳』に記載されています。国衙(律令制度の頃の役所)との結びつきが強く、二条天皇応保の頃〔1161年頃〕には「肥前一宮」とされ、弘長元年(12δ1年)に正一位を授けられました。 16世紀、與止日女神社一帯は、肥前国において勢力を伸ばそうとしていた戦国大名である龍造寺隆信の軍と、山内(さんない)地方を支配していた神代勝利軍の対立の舞台となり、永禄4年(1561年)には「川上峡合戦」が起こりました。この戦は龍造寺軍が勝利し山内地方に勢力を広げました。 当神社は、名勝「川上峡」に位置し、水、川、海の守護神として崇拝されています。 また、蛇の妖怪(カナワ)から、ナマズが人々を守ってくださったとの言い伝えにより、当地ではナマズを神の使いとしてあがめ、食用としません。 現在の社殿は文化13年(1816年)に、当時当地を治めていた鍋島家により再建されたものです。 明治4年(1871年)、近代社格制度により、県社に列せられました。 平成25年(2013年)、社殿及び境内が「佐賀市景観重要建造物」に指定されました。 公式HP |
与止日女神社 淀姫神社 よどひめじんじや 佐賀県を中心とする北九州地方に、淀姫神(写止日女神〉を奉斎する神社が多くある。そのなかでも、佐賀県の嘉瀬川流域には六社鎮座している。淀姫神についてはいくつかの説がある。『肥前国風土記』の佐嘉川(現在の嘉瀬川)の川上に「世出姫」という石神があったと記されている。『延喜式神名帳』の佐嘉郡の条に「与止日女神社」とあり、現在も佐賀郡大和町川上一番地に「与止日女神社」が鎮座している。従って、淀姫神(与止日女神)は「世田姫」の転訛したものであるという説がある。また『宇佐宮縁起』の記述により、神功皇后の妹神とする説、豊玉姫命とする説がある。『肥前国風土記』は、「世田姫」に関連して「海の神、年常に、流れに逆ひて潜り上り此の神(世田姫)の所に到るに、海の底の小魚多に相従ふ。或は、人、共の魚を畏めばまがなく、或は、人、捕り食へば死ぬることあり。」と記している。この伝説は今も生きており、佐賀郡大和町鎮座与止日女神社周辺の人々は、なまずを「淀姫さんの御眷属」といって食べないという。 与止日女神社 よどひめじんじや 佐賀県佐賀郡大和町川上。旧県社。式内社。「河上神杜」とも称されている。祭神は与止日女命。『肥後国風土記逸文』に「人皇30代欽明天皇の25年、甲申のとし、冬11月朔日、甲子のひ、肥前の国佐嘉の郡、与歩姫の神、鎮座あり。一の名は豊姫、一の名は淀姫なり」とあり、その創祀、異称を記している。また『延喜式』には「佐嘉部一座与止日女神社」とあり、『群書類従』所載の『八幡愚童訓』には「豊姫卜申ハ、河上ノ大明神ノ御事也」、「河上大明神ハ、皇后の御妹二坐セパ」等の記事があり、この神は神功皇后の御妹君に当たる。現在神殿正面に「大日本国鎮西肥前州第一之鎮守宗廟河上山正一位淀姫大明神一宮」の慶長7年後陽成天皇勅額があり「肥前国一の宮」として知られている。例祭4月18日。県文化財として平安期から桃山期の当社に関する河上神社文書247通等がある。 神社辞典 |
河上神社 延喜式神名帳に、輿止日女神社とあるは仰ち本社なり、鎮座の年代詳かならすと雖も、太宰管内志に「輿止日女神社、延喜式に佐賀郡與止日女神社あり、與止日女は予抒比売と訓むべし、御名の義は佐嘉川の川淀に坐すに因つて負せたるべし」と見え、字佐宮縁起に「神功皇后將征異國、于時白髪老人来奉導曰、磯鹿島有安曇磯良者、宣召借干珠満珠於龍王、若得此珠則三韓自服矣、皇后曰、如何可召老人言、此童愛細男舞、又名男良舞、為乏便自乗、皇后曰、誰爲之、老人言、使供奉人奏音樂、翁自舞之、既而舞、磯童忽化舞人姿、著淨衣、踏皮脛巾、掛鼓於頸、以袖掩顔、乗亀甲、自海中出、皇后乃使妹豊姫、與磯童至龍宮、借得二珠、於是投此珠于海、而三韓降服云、二珠奉納、于肥前國左嘉河上宮、老翁者住吉大神也、磯童者筑前國鹿島大神也とあり、八幡愚童訓拝に肥前古跡記等に載する所亦同じ、清和天皇貞観2年2月、從五位下淀姫神に從五位上を授け、同15年9月、正五位下を加へ、亀山天皇弘長元年2月20日、正一位に進め給ひぬ、又後字多天皇弘安年中、此神、霊威を顕して、大に賊船を■き給ひし由、乾元2年記に見えたり、肥前風土記に曰、「此河上に石神あり、名は世田姫、年毎に流を■りて上流に至る、海底の小魚多く之に從ふ、人共魚を畏るれば狭なく捕へて之を食へば死すと、以て如何に其神威の著きかを見るべし、石神といへるは、當社を距る東北二十丁の処に山あり、梅の山といふ、山の半腹に鎮座あるもの即ち石神なり、神体は三面の大石にして、高さ丈余二面は壁立し、一面は上に蓋ふ、土人称して石神といふ、後陽成天皇、大日本國鎮西肥前州第一之鎮守宗廟正一位河上山淀姫大明神一宮の勅額を下したまひぬ、明治4年12月縣社に列る、其後同村無格社淀姫社及び同天神社三社の四柱を本社に合祀す。 社殿は、本殿、拝殿、其他参寵所、神饌所等を備へ、境内2380坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |