志々伎神社(中津宮)
ししきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】志々伎神社 肥前国 松浦郡鎮座

   【現社名】志々伎神社(中津宮)
   【住所】長崎県平戸市野子町251
       北緯33度10分44秒、東経129度22分9秒
   【祭神】十城別命 (配祀)鴨一隼命 七郎氏広
   【例祭】5月8日 春季大祭 11月7-8日 本宮大祭 11月11-12日 中宮大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創立年代不詳
       弘仁2年(811)10月朔日、沖ノ宮に御神体の御木像を納め
       貞観2年(860)2月8日従五位上
       貞観15年(873)9月16日正五位下
       貞観18年(876)6月8日正五位上
       元慶元年(877)9月25日勅使参向
       弘安7年(1284)11月18日の注進状に記載
       永禄2年(1559)中宮より遷座造営
       明治7年郷社
       明治14年県社
       昭和36年10月神宮寺圓満寺の跡に遷座造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地下宮であったと思われる
        後祭祀の中心は中宮(現神社地より200m上)に移った
        永禄2年(1559)現在の地に
        神宮寺圓満寺の跡に遷座造営

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・社務所

   【境内社】

式内社志々伎神社は,志々伎山を中心にして上宮,中宮,地の宮,沖の宮の4社と別当寺(円満寺=現在の中宮社)の5つの社域がある。
上宮は、志々伎山(347m)の山頂に石祠がある。
中宮:現在地は円満寺の跡であり、中宮は現神社地より200m上にあった。
下宮(地の宮)は、宮之浦港の左手の山、「ひもろぎの山」の麓にある。
沖の宮(沖都宮)は宮之浦の港の小島にある。
景行天皇が築紫を巡幸されたとぎ「志式島」の行宮におられ、大値加・小値賀(風土記には大近・小近)の賊を(風土記には小近の土蜘蛛を大耳(おほみみ)、大近の土蜘蛛を垂耳(たりみみ)とある)を征し給うた。ここが「志々伎宮ノ浦の行宮であつたという。ついで神功皇后の三韓征伐の凱施に際しては、十城別(とをきわけ)王(又は命〉を下松浦郡志自岐に留め、三韓に対する警備に当らせ給うた。志志伎神社はこの十城別王を祭祀した神社であるという。
下宮は、宮之浦港の左手の山、「ひもろぎの山」の麓にあり、本社の中心はもとは下宮、「地ノ宮」であつたと推定される。
中宮は現在の社殿が建つ場所から200mほど登った場所にある。
石垣で囲まれた150uの敷地が残り、そこに上る石段などがある。現社殿は神宮寺であった円満寺の敷地があったと推定されている。


由緒

式内志々伎神社縁起
(イ)肥前風土記(奈良時代の勅選地誌。713年元明天皇の詔により編)に「人皇第12代景行天皇が筑紫(九州)を巡幸された折り、志式島の仮宮(宮ノ浦の行宮)に在して、西の海(宇久、小値賀、五島列島)をご覧になって云々」と記されてある。この因縁が志自岐神社の創建につながる。
(ロ)延喜式(平安時代927年醍醐天皇の詔により編まれた法典)第九・一の巻の神明帳に「肥前国四座、大一座、小三座。松浦郡二座、大一座田島神社(唐津の田部)、小一座志志伎神社(志々伎山)基肆郡一座、小一座荒穂神社。佐嘉郡小一座與止姫神社」と記され、志自岐神社はその1社で、長崎県(対馬、壱岐を除く)唯一の国幣社である。この延喜式に載っておる神社を式内社と呼ぶ。
(ハ)祭神十域別王
日本書記(日本最初の国史。720年元正天皇の詔により編)によると、十域別王は、日本武尊(景行天皇の皇子)の第6子(第2子仲哀天皇。第4子は稚武王。他は略)で、即ち仲哀天皇及び唐津田島神社稚武王の弟で15代応神天皇(母神功皇后)の叔父君に当たる。
十域別王が祭神となられた縁起に「肥前国松浦郡志自岐制進院宣等一巻」に「志自岐神社は仲哀天皇御弟、応神天皇御叔父なり。神功皇后三韓征伐の時、供奉の将となり、専ら異類を誅罰の上、日本護国本誓の為に聖跡を志々伎山嶽に留め廟(祭政一致を行う神聖な場所)を此の峯にはじめられ云々」とあり、王は三韓凱旋に際し志式島に駐留し、三韓に対する警備に任じられたのである。王、宮ノ之浦駐留当時は、地方住民は王に隷属して警備の任に当たった。小値賀神島神社(鴨一隼)平戸の七朗神社(七朗氏廣)等、各武将の分掌した下松浦一円の警備統轄の中心本署であった。王の没後住民等は王の祭祀を此処に行い、遂に皇室の尊崇する所となり、志自岐神社と称するに至った。(社伝縁起、他古文書)
明治7年郷社。明治14年県社に列せらる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




志々伎神社

延喜式内社
志々伎神社 中津宮
御祭神 十城別命 鴨一隼
七郎氏廣
中宮は永禄2年(1559年)古中宮から遷座造営され昭和36年秋現在地に再遷座された。
志々伎山信仰の中心社で山中史跡多く49年県文化財の指定を受ける。

社頭掲示板



志々伎神社

十城別尊ハ景行天皇ノ皇子日本武尊ノ皇子 仲哀天皇ノ皇弟神名帳頭曰、志々伎神ハ稚武王弟十城別王也 号下松浦明神也
嵯峨天皇弘仁二年辛夘十月朔日 御神体(御木像)ヲ安鎮(沖都宮二)セラレ志々伎神社ト改メラルト云 御神体今尚存ス。
陽成天皇元慶元年九月廿五日 勅使参向ノ儀式アリ 其後毎歳二月四日祈年祭アリ然レトモ遠国ナルヲ以テ其国主長官、神祇官ノ例二准へ 散齋三日致齋一日共二会シテ祭ラルト云。弘安年間両部社ト成ルト云モ 今又旧二復ス。

神社明細書(明治8年5月)



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