佐波波地祇神社
さわわちぎじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】佐波波地祇神社 常陸国 多賀郡鎮座

   【現社名】佐波波地祇神社
   【住所】茨城県北茨城市大津町1532
       北緯36度49分59秒,東経140度47分32秒
   【祭神】天日方奇日方命 大山祇命 少彦名命 素盞嗚命 火産靈命
        伊邪那岐命 伊邪那美命 海津見命 大物主命 木花開耶姫命
       天照皇大神 日本武尊 面足命
       (配祀)大己貴命 事代主命 大物主命 姫蹈鞴五十鈴姫命 五十鈴依姫命

   【例祭】5月3日
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀年代等未詳
       貞観元年4月26日従五位下
       元禄年中徳川光圀が神鏡一面を奉納
       享保12年(1727)4月造営
       明治2年郷社
       同4年村社
       明治13年9月郷社に復した

   【関係氏族】
   【鎮座地】はじめ大津の澤山(佐波山)に鎭座
        その後東堂下に移り、更に現社地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「大宮六所明神」「六所明神」「大宮明神」と称していた
   【公式HP】 佐波波地祇神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・神輿舎・手水舎・額殿。社務所

   【境内社】水天宮・稲荷神社・素鵞神社・諏訪神社・海津見神社
        姫宮神社・大山祇神社・淡島神社・八坂神社・愛宕神社
        三峰神社・津之神社・安波大杉神社・稲村神社・尾崎神社・足尾神社


「さははち」は波が左からくる意、波が多い意。台地上で港が一望。日本武尊この沖で逆波に漂う事数日、祭神がその波を鎮めた。


由緒

当社の創立は、斎衡天安の間と伝ふ。三代実録には、清和帝貞観元年4月26日辛亥常陸多珂郡正六位上佐波波神進従五位下云々とあり、又神道集成式内神社編に、延喜式常陸二十八社多珂郡一座小佐波波地祗神社「三代実録佐波波神按今在大津邑天日方奇日方命面号大宮大明神云々」とある。鎮座地を唐帰山と云ひ、古来武将の崇敬が厚く、特に海上守護の御神徳顕著。伝説に日本武尊命御東征の砌、大津の沖皇浦に於て逆浪に漂い給うこと数旬、一夜白衣の神人、雲龍に乗って枕頭に立ち給ひ「我佐波波神なり、今皇子の御船を守護せんが為来れり、直に順風にさせん」と、夢さめれば果たして其の言の如くなる。早速使を奉幣、報賽の誠をささげられたといふ。又水戸光圀公船で、北陸探険の途中海上に漂い給ひし時、遥かに当山の松影を認め、進路旬日にして接岸することができたといふ奇瑞があり、それらの故事と松影から、唐蓋山=唐帰山と呼ばれてゐる。佐波波神佐波波地祗また六所明神と尊称されておったが、元禄中に光圀公が神徳を景仰して、神鏡一面を奉納し、称号を改めて大宮大明神とした。当社は古くは佐波山にあったものを、東堂平の地に移し、更に現神域を卜定して鎮座したといふ。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




佐波波地祇神社御由緒記

延喜式式内社
佐波波地祇神社
サワワチギジンジャ
サハハクニツカミジンジャ
旧郷社
別称 大宮大明神 六所明神
鎮座地
茨城県北茨城市大津町字宮平1532番地(常陸国大津港唐帰山)
御祭神・御事歴
主祭神天日方奇日方命
大巳貴命の令孫事代主命の第三皇子神武帝に仕え東夷征伐に大功
配祀神 大巳貴命 積羽八重事代主命 三輪神少彦名命 媛蹈鞴五十鈴姫命 五十鈴依姫命
由緒
当社の創立の起源は古く、延喜式神祇神名上に常陸國二十八座大七座小二十一座の中に多珂郡一座小佐波波地祇社とあり、また日本三代實録には、「清和帝貞観元年4月26日辛亥常陸多珂郡正六位上佐波波神進従五位下云々」とあり、また社伝によれば「多珂郡白王浦(今改大津)佐波ノ湊ニ鎮座佐波波神天日方奇日方命而号大宮大明神云々」とあり、このことから、少なくとも1200年前の齋衡(854〜)・天安(857〜)の間に創立と伝えられている。
古くは佐波波神また六所明神と尊称されていたが、元禄年間に西山公(徳川光圀公)が神徳を景仰して、神鏡一面を奉納し、大宮大明神と尊称を奉った。
御神徳
六主神一体となり国家鎮護、国運開発、万物生命の守護、目的達成、海上守護、家内安全、交通安全、民業(農業商業工業等)の祈願の萬願を成就し守護する。
特に海上守護の御霊徳が顕著により広く世に知られ、古来武将及び海上航海漁民の崇敬が厚い。
海上よりこの山を望めば鬱然たる森を見、東海の船舶は常に航路の目標としている。
上古日本武尊が東征の砌、大津の沖で逆浪に漂い給うこと数旬、一夜白衣の神人、雲龍に乗って御夢枕に立ち「吾ハコレ佐波波ノ神也。今皇子ノ御船ヲ守護センガタメ来レリ、直チニ順風ニナサン」と。
夢覚めれば果たしてその言の如く波穏やかにして遥かに杜を見る。依って使いを遣わし幣を奉った。
と古記にあり。、またその後にも、源義公(光圀)が船で北地探検の途中海上で漂い給いし時、遥かにこの神山の松影を認め針路旬日にして無事接岸することができたと言う。
唐帰山(カラカイサン)
前述の奇瑞と松影とからこの鎮座地の山を唐帰山と呼ばれている。
境内には老松鬱蒼として拝殿をつつむ。
「それは大津の唐帰山よそに木がない松ばかり」(祭りばやし)海上よりこの山を望めば、蒼龍の天に躍るがごとく、東海の船舶は常に航路の目標としていた。
御社殿 建造物
本殿流造正面軒唐破風銅葺 享保12年丁未(1727)造営平成8年修復造営
幣殿拝殿 権現造 明治11年造営(1878)銅板葺昭和8年(1933)
神輿 安政4年新造営(1858)
参集殿(掲額殿) 神輿殿 水盤舎
鳥居 木造両部鳥居一基 石造神明鳥居三基境内神社
水天宮、稲荷神社、素鵞神社、諏訪神社、海津見神社、姫宮神社、大山祇神社、淡島神社、八坂神社、天照皇大神宮、住吉神社、豊年神社、鷺森神社、二十三夜尊、工祖大神、聖徳太子、忠魂碑
境外社
諏訪神社、愛宕神社、三峰神社、安波大杉神社、津之神社、稲荷神社、稲村神社、八坂神社、尾崎神社、清明神社、足尾神社
境内案内(古来氏子町民漁民の信仰が厚く数多くの奉納物がある。)
記念碑
佐波山碑〔弘道館督学前国史総裁青山延于撰 建立天保12年(1841)〕
漁業炬燭之碑 神田記 殖飽碑 燈道記 日露戦役忠魂碑
拝殿水盤舎銅葺記念碑 神宮参拝記念碑 御船祭記念碑
神輿修繕記念碑 鳥居奉納記念碑 国無形民俗文化財指定記念碑他
石造大黒天、恵比寿大黒
石造「かね牛」一基(子育・開運)
石造狛犬三対 木造狛犬一対
唐帰の井戸 石造灯籠八対 唐金造灯籠二対 天水甕一対 絵馬多数
御祭日
歳旦祈願祭 1月1日 成人祭 1月15日
歳重ね厄除祈願祭 2月1日 節分追儺祭 2月節分
春例大祭5月2・3日
《常陸大津の御船祭》五年毎斎行(平成6年・11年・16年…)
潮和報恩感謝祭 11月3日 七五三祝祭 11月15日
秋献穀祭11月24日月次祭毎月1日、15日
末社祭日(正月、五月、九月)
金比羅神社 10日 三峰神社 19日 姫宮神社 19日
二十三夜尊 23日 稲村神社19日 愛宕神社24日
諏訪神社 27日 稲荷神社 28日
末社祭礼日
足尾神社旧3月15日 八坂神社旧6月7日 素鷲神社旧6月15日
浜諏訪神社 旧6月27日 清明神社 7月第二日曜 三峰神社 7月最終日曜
安波大杉神社 7月第三日曜 津之神社7月第四日曜 諏訪神社7月27日

社頭掲示板



常陸大津の御船祭

国選択 無形民俗文化財(民俗芸能)
ひたちおおつのおふなまつり
常陸大津の御船祭
指定年月日 昭和50年6月25日(県指定)
指定年月日 昭和54年12月7日(国選択)
所在地 北茨城市大津町1532
管理者 常陸大津のお船祭保存会
御船祭は、北茨城市大津町に鎮座する佐波波地祇(さわわちぎ)神社の祭礼で、5年ごとの大祭に行われる。
祭がいつ頃始まったのか明らかではない。
5月2日の宵祭りでは、夜間暗闇の中で、佐波波地祇神社の本殿より御輿に「御分霊写しの儀」が行われる。
5月3日の本祭りでは、御輿は諏訪神社下で神船に移される。
御輿を乗せた神船は、水主(歌子)の歌う御船歌や囃しにあわせて300人ほどの曳き手に曳かれ、約5時間かけて浜の津神社下に到着する。
船底には山車のような車輪はなく、ソロバンと呼ばれる井桁状に組んだ約100丁の木枠を敷き、2、30人の若者が船縁にとりつき左右に揺らしながら木枠の上を滑らすように曳いていく。
津神社下で下船した御輿は、潮垢離の神事を行った後、神社に環御する。
かつて神船は、海上を渡御していたが、その後海上部分が陸地となったため、現在のような陸上を船が動く形になった。

http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/mingei/17-8/17-8.htm



佐波波地祇神社

当神社は大津唐帰山に鎮座する。延喜式内常陸二十八の一社で、此の地方の大社であり、古来より海上守護の霊験あらたかである。
社伝によれば、日本武尊が武将を率いて東征された際、この沖で逆波に漂うこと数日一夜神人霊雲に乗りて枕頭に立ち給い「吾ハ佐波波神也、今皇子ノ船ヲ守護センガタメ来レリ、直チニ順風ト為サン」と、御夢醒めると、果たしてその通りになったので、幣を奉り、佐波波の山に崇祀したという。
その後沖を通る船を守護し、逆風に会い異国に漂っても、大神の助けがあって帰ってきた例があったため、唐帰の宮と称した。
当社の御創立は詳らかでないが「清和天皇貞観元年(約1100年前)4月26日辛亥佐波波神ニ従五位下ヲ進ム云々」とあり鎮座の遼遠なることを知る。斉衡3年12月戊戌他の神を合祀した。
社頭には松の巨木が多数あり、宮の松・唐蓋の松といわれ、船の往来の表となっていた。
現在の社殿は享保12年丁未造営という。
昭和48年5月10日

社頭掲示板



佐波波地祇神社

当社の創立の起源は古く延喜式神祇神名上に常陸國二十八座 大七座小二十一座の中に多珂郡一座小 佐波波地祇神社 とあり、また日本三代實録には「清和帝 貞観元年四月二十六日辛亥常陸多珂郡正六位佐波波神進從五位下云々」とあり、また社伝によれば「多珂郡皇浦(今改大津)佐波ノ湊ニ鎮座佐波波神 天日方奇日方命而号大宮大明神云々」とあり、このことから、創建は少なくとも一千二百年前の齋衡(854〜)・天安(857〜)頃とされる。
 古くは佐波波神また六所明神とも尊称されていたが、元禄年間に西山公(徳川光圀公)が神徳を景仰して、神鏡一面を奉納し、大宮大明神と尊称を奉った。

公式HP



郷社 佐波波地祇神社

祭神  天日方奇日方命 大己貴命 事代主命
 大物主命 姫踏鞴五十鈴姫命 五十鈴依姫命
創立年代詳ならず、初め六所明神と称し奉り、村内佐波山に鎮座せられしが。後、東皇平の地に移り、更に又今の地に從り給ふ、共に年月を詳にせず、明細帳に
「佐波山是地海中ニ凸出ス、海ニ向テ望ム、波勢多クハ北ヨリ来リ拍ッ、故ニ佐波ト名クト、又云フ、佐波ノ言タル多ナ、、国音多ヲ謂テ佐波トナス、後又転シテ大(多ニ通ズ)トナリ、大津ト書スルニ至ルト云」
と、元禄年中義公徳川光圀、神鏡を納め、大宮大明神と改む、然ども俗猶旧称を襲くと、明治2年郷社に列せしが、同4年村社に、同13年9月再び郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、境内は1228坪(官有地第一種)あり、老松鬱蒼とし遠く之を望むを得、東海の般舶以て目標とす、
当社の式並圀史所載の神社なりや否やに就きては敢て再び賛せす、乞ふ、小津田に就て知れ。

明治神社誌料



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