日本武尊が東征の帰途この地を過ぎて佐波神を拝し、佐波山の妖蛇を斬り、また塩原山上に鏡を納めた。 もと現社地の塩原山から北西に一里ほど距つた佐波山の南嶺、贄田(二田・仁田とも、上小津田字二田。浄蓮寺渓谷の奥)神楯に祀られていた。 後、永禄12年(1569年)に塩原山の山上に遷座し、その後山腹の現社地に遷座したという。 |
佐波々地祇神社 佐波波は假字也、地祇は久爾都加美と訓べし、○祭神詳ならず○佐波山庄小津田村に在す、(地名記)例祭月日、 地名記云、所祭天日方奇日方命、猿田彦大神と、覚束なし、連胤按るに、地祇と称するは、此帳の中に、山城國綴喜郡地祇神社、武藏國入間郡國渭地祇神社等三社也、 神位 三代実録、貞観元年4月26日辛亥、常陸國正六位上佐波神授從五位下、 神社覈録 |
郷社 佐波々地祇神社 祭神 天日方奇日方命 創立年代詳ならず、桓武天皇延暦20年坂上田村麻呂北征の際、旋を祈る、神助ありて凱旋に当り、劒を奉納して報賽す、後源頼義永正5年北征に当り亦勝を祈て和歌一章を上る、初め祠佐波山に在りしが、永禄年中 塩原山に移し、更に又今の地に奉遷す、此地元と沢山村と称せしが、慶長9年、車、小津田の二村に分つ、佐波山の南に山あり、二田神楯と称す、山岳相対する一里一大澤をなす、此れ佐波の称の因て起る所たり、明治維新の後郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、境内は848坪、官有地第二種たり。 本郡佐波波地祇神社は式内社にして、清和天皇貞観元年4月辛亥、正六位上佐波神に從五位下を授けられしこと三代實録に見え、古来著名の神社たるが、本郡内に相接して同名の神社二社あり、一は当社、一は大津の佐波波地祇神社にして、両社互に其式内社たることを争ひ相執て譲らず、然れども學宥多く当社を以て国史並に式に見えたる佐波波地祇神社とせり、先づ二十八社考、 「謹按、佐波波地祇祠、多賀郡有二所、近世以大津村大宮六所明神為二十八社之員、然旧記無足以徽者、小津田村佐波山神、古来称曰佐波神、與三代實録合矣、且後冷泉帝永正5年、源頼義所奉佐波神和歌、及卜部家所書佐波波地祇神社額字、藏在神庫、此可以為明拠、故今從之」 と、云ひ、特選神名牒又、 「今按明細帳大津村ヲ式内トシ小津田村、式外トシタレド、神官穂積氏、累葉相嗣キ、其職ヲ嗣クヤ、初佐波山旧祠ヲ拝シ、後本社ニ詣ルヲ以テ例トスト云ル証微アリ、云々、」 と云へり、蓋黒白自から明かなるべし、又新編常陸圀志に云く、 「式内佐波波地祇神社は今小津田村に在り、近人附會して、神名の社號に相似たるものを混じて説をなすと雖も、信を取るに足らず、今祠を距ること六里許に佐波山あり、古者祠共西嶺に在り、之を贄田神楯と云ひ、数里の間、層岳相接し、傾側繁廻、下臨笈々、縁渉するもの日眩し足酸すべし、土人傭て、山婁あり、故に祭るもの潔密敏日にして登る、然らざれば神巣ありと云ふ、天文13年好間義秀訓厩車城を修築するとき、託神を盛原山に移し、近世又其山腹に遷す、即今の地なり」 明治神社誌料 |