羽梨山神社
はなしやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】羽梨山神社 常陸国 茨城郡鎮座
          (旧地)羽梨山神社【旧地】

   【現社名】羽梨山神社
   【住所】茨城県笠間市上郷 3161
       北緯36度18分25秒,東経140度14分46秒
   【祭神】木花咲耶姫命
   【例祭】11月3日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀年代等未詳
       天智天皇3年(664)山中に祠を建という
       大同元年(806)勅額を賜うと伝
       貞観12年(870)8月28日従五位上『三代実録』
       仁和元年9月7日正五位下『三代実録』
       天文11年(1542)兵火に罹つて焼失
       天文15年(1546)園部大輔と小田政治との衝突の際小田方が兵力を結集
       慶長年中現地に熊野権現を祀り、羽梨山神を合祀
       宝暦年中羽梨山の旧社趾に小祠を立てた
       明治6年4月1日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとこの男体山(553m)の山中に鎮座
        のち現社地の熊野権現に合祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「熊野権現」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】

日本武尊が東征の途次、老翁・媼が山菓を献じ、それによつて兵卒の飢渇を癒やすことができたので、名を問うに磐筒男・磐筒女といつた。凱旋の際、朝日丘の神に羽々矢・果実を供して報賽した。それより羽梨山の称が生まれた(果実というのは梨の実)という地名起原説話がある。
平将門の乱のとき、平貞盛が弓矢と砂金を献じ将門征伐の武運を祈ったと伝えられる。
もとこの男体山(553m)の山中、現社地より八丁ほど距つた所にあり、のち現社地の熊野権現に合祀され、更に羽梨山神社と改称された。


由緒

西茨城郡岩間町上郷に鎮座し、旧郷社、祭神は木花咲耶姫命を祀る。創立年代は不詳であるが、社伝に、「上世磐筒男、磐筒女の勲績を称えて、磐麻国朝日丘に此神を鎮め奉るという。昔日本武尊東征途に磐麻に到りて陣を布く。適々兵卒渇し且つ飢ゆ、時に一片の山果を持てる老翁及び老媼あらわれ、その山果によってこの難を救はる。尊は何人なるやを尋ねしに「磐筒男・磐筒女」なりと、尊凱旋の後この地に到り朝日丘にこの神を祀り、羽々矢二筋及び果実を供し、前年の恩に報賽す」という。是より羽梨山の称あり。
その後坂上田村麿を始め幾多の武将祈願を篭め報賽の物品を神納する。天文年間兵災に罹り、神殿悉く焼失為に旧籍を失う。かの源頼義、義家も矛・太刀・鎧及び神馬を奉納されたというが、現在神馬の鐙のみが宝物として現存している。後朝日丘より、現在地に遷祀する。徳川幕府祀田五石の章書を供す。延喜式内小社に列し、明治6年4月1日郷社に定められた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




延喜式郷社羽梨山神社由緒

1.祭神 木花咲耶姫命
創立年紀遠遥詳ナラズ。社伝ニ上古磐筒男、磐筒女勲織ヲ称シテ常陸磐麻国朝日丘ニ此ノ神ヲ鎮メ奉ル事。昔、日本武尊ノ東征途ニ磐麻ニ至リテ陣ヲ布ク適々兵卒渇ス且飢エ干時羽客刀自女アリ。
一片ノ山栗ヲ斉ラス、衆皆飢渇ヲ逃ルゝヲ得タリ、尊老翁何人タルヲ問フ、答エテ曰ク 磐筒男・磐筒女ナリト凱旋ノ時此ノ地ニ到リ朝日丘ノ神ニ羽々矢ニ筋果実ヲ供シ前事ノ思ニ朝賽スト云、是延暦20年(472)坂上田村麿陸奥ヲ征スルニ当リ途ニ羽梨ノ神ニ奉幣勝戦ヲ祈ル、大ニ攻征ニ切アリ、同22年其ノ神ノ感応ヲ奉奏シテ神殿二宇ヲ創ム。左兵衛督巨勢野是ニ勅シテ幣ヲ奉奏シ遷宮式ヲ行ハシム。
天文10年(432年前)兵火ニ罹リ神殿悉ク災蕩ノ為旧籍ヲ失フ、僅カニ残牘ヲ得テ其ノ概略ヲ掲グ
慶長6年(372年前)本社及拝殿奉造(神社保存棟札ニ依ル)
寛永7年(338年前)本社及拝殿奉造(神社保存棟札ニ依ル)
承応2年(321年前)本社及拝殿奉造
寛文8年(305年前)奉建立御宮神社保存棟札ニ依ル)
ヨリ羽梨山ノ称アリ
大同元年(1667年前)勅額ヲ賜フ
貞観元年(1114年前)菅原道実直シテ正一位羽梨山大明神ノ号ヲ奉ス
元慶2年(1095年前)小野春風此ノ神ニ祈リテ出雲□ヲ平グ、神風其ノ神恩ヲ謝シテ太刀鎧神馬ヲ納ム
天慶ノ乱(1034年前)平将門関東ニ兵ヲ挙グ
貞盛亦茲ニ祈リテ弓矢砂金ヲ納ム
天喜康平ノ乱(915年前)義家羽梨山ニ拝ス
亦屡旋戦ヲ祈ル頼義家相尋ネテ太刀鎧及神恵ヲ納ム
治承(793年前)頼朝、暦応尊氏奉器ニアラズト云フ
延享4年(227年前)本社新築竣工(現在ノ建物)
神殿(権現造)間口49尺奥行7尺2寸
境内官有地 535坪
氏子 127戸
徳川将府記 田五石ノ章書供セラル
明治6年 郷社ニ定メラル
(神社庁今昔誌ヨリ写ス)
昭和48年3月)

社頭掲示板



羽梨山神社

式内郷社 羽梨山神社
鎮座地 岩間町大字上郷3161番地
御祭神 木花咲耶姫命
 木花咲耶姫命は容姿端麗桜花の咲き匂うがごとき美女と讃え られ金山花に覆われ花白山とも称される羽梨山に相応しい御祭 神として勧請されたものである
由 緒  羽梨山神社は延喜式宝典(905)の式内社 常陸国二八社 の中の一社であり 郷社に列せられた格式高い神社である
 又、上古 磐筒男・磐筒女の二神が磐麻に在って日本武尊の 東征軍を援け給い 尊より羽梨山の尊称を戴き岩間朝日丘に鎮 祭されたとも伝えられている
延暦22年(803)坂上田村麻呂陸奥征討の大任遂行の報 賽として神殿二宇を建立寄進する
中世 (1200年代)宍戸家政 当社を崇敬して社殿を造 営し 宍戸三三郷の鎮守と定める
天文11年(1542)兵火に罹り神殿悉く焼失し朝日丘よ り八町程下なる現在地に遷る
寛文 8年(1668)本殿及び拝殿造営(棟札)
元禄16年(1703)明神石鳥居建立(現鳥居)
延享4年(1747)本社(現社殿)新築竣工
明治6年(1873)郷社に列せられる
御神徳  鎮守の神様は地域の守護神であり 御神木の霊力と相俟って縁結び・家内安全・徐災招福・五穀豊饒その他氏子崇敬者の願いを聞し召して下さる
御神木 羽梨山神社のスギ(町指定名勝天然記念物)
境内  836坪の境内には 樹齢500年を超える御神木を始め樅・楠・椎・杉等の巨木が鬱蒼と神域を覆い、氏子総代一同の献身的な奉仕と相俟って 式内郷社に相応しい荘厳さを保って いる
祭 事 元旦祭 (1月1日)
節分祭 (2月3日)
祈年祭 (4月11日)
例大祭 (11月第二土・日曜日)
新嘗祭 (11月23日)
その他の祈願祭

社頭石碑



延喜式郷社 羽梨山神社年表

天智天皇3年(667) 山中に祠を建という
大同元年(806) ※B勅額を賜ると伝う
貞観12年(870)8月28日 ※4従五位上、※D『三代実録』による
仁和元年(885)9月7日 正五位下『三代実録』による
天文11年(1542) ※E兵火に罹って焼失
天文15年(1546) 園部大輔と小田政治との衝突の際小田方が兵力を終結
慶長6年(1601年) 現地に熊野権現を祀り、羽梨山神社を合祀
寛文8年(1668年) 本社及拝殿奉造【棟札に依る】
元禄16年(1703年) 明神石鳥居建立【現在の鳥居】
延享4年(1747年) 本社新築竣工【現在の本社】
宝暦年中(1761年頃) 羽梨山神社の旧社跡に小祀を建立
明治6年(1873年)4月1日 郷社に定められる
平成22年(1999年) 羽梨山神社の旧社跡に小祀を建立
 ※@平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
 ※A明治4年(1871年)太政官布告により定められた社格
 ※B皇帝・天皇などが国内の寺院に特に与える直筆の書で詔された寺社額
 ※C757年制定の養老律令・官位令に基づく
 ※D日本の平安時代に編纂された歴史書
 ※E現在地より約900m西寄り難台山中腹(現ゴルフ場敷地内)

社頭掲示板



羽梨山神社

羽梨山は波奈志夜寓と訓べしO祭神木花開耶姫命(地名記鎮座)○宍戸郷岩間村に在す、(同上)例祭 月日、
鎮坐に、土人傅云、昔此山也、櫻樹爲林、毎春花盛開之時、連乎如雲、因名曰花白山、後世謂之花志山訛也、亦改爲葉梨俗謬耳と云り、参考には、上笠間村にありといふ、今地名記、鎮坐に從ふ、
神位
三代實録、貞観12年8月28日戊申、授常陸國從五位下羽梨神從五位上、仁和元年9月7日戊子、授常陸國從五位上羽梨神正五位下、

神社覈録



郷社 羽梨山神社

祭神 木花開耶姫命
創立年代詳ならず、社伝に云く、上世磐筒男、磐筒女の勲績を称して、常陸磐麻國朝日丘に、此神を鎮め奉ると又云く、昔日本武尊東征途に磐麻に到て陣を布く、適々兵卒渇し且つ飢う、于時羽客刀自口あり、一片の山菓を斎す、衆皆飢渇を免るゝを得たり、尊、老翁に其の何人なるかを問はる、答曰、磐筒男、磐筒女なり。と、尊凱旋の時此地に至り朝日丘の神に羽々矢二筋、及菓実を供して前事の恩に奉賽す。是より羽梨山の称ありと、郡郷考又一説あり、云く、
「昔此山櫻多く、花時満山雪の如し、因て花白と云ふを、羽梨と訛りし也、又一云筑波は満山松樅叢生する故に、葉山茂山と云ふ、此山樹なきを以て葉なしと云ふ、」
と、桓武天皇延暦20年坂上田村磨蝦夷征討に当り、当社に捷を祈らる、凱旋の後同22年報賽の為め社殿二宇を創建す、時に左兵衛督巨勢野足に勅して幣を奉り、遷宮の式を行はしむ、次いで平城天皇大同元年勅額を賜ひ、清和天皐貞観元年菅原道真に勅して正一位羽梨山大明神の号を奉らしめ給ひ、陽成天皇元慶2年小野春風出羽の賊を平ぐるに当り祈る所あり凱旋の日大刀鎧及神馬を奉る、降て天慶、天喜、康平の乱亦屡戦捷を斎り、頼義義家頼朝尊氏等相次いで崇敬至らざるなかりしが、天文年間兵災に罹り旧記録類を失ひ、沿革を詳にする能はざるに至れり。徳川幕府の世に当り、祀田三石四斗二升五合を寄せらる、明治6年郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、境内は535坪(官有地第一種)及近く編入せられし七畝十二歩の上地林より成る、羽梨山神社は式社にして、貞観12年從五位下、元和元年正五位下を授奉られ給ひしこと国史に見え、古来著名の神社たり、二十八社考、神名帳考証等当社を以て式の羽梨山とす、然るに新編常陸國誌、園部状に拠て、当社を式の羽梨山とするの非を主唱せし以来學者多く之に賛す、明紀して後考を俟つ、

明治神社誌料



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