大同2年創建と伝える。子育てに霊験ありという。台地の端にあり。 式内夷針神社に比定する説がある、また式内羽梨山神社に比定する説がある。 |
子安神社 謹んで申しあげます。当東野寺に鎮座するところの子安神社は、大同2年に創建され、御祭神は木花開耶姫命、武甕槌命であります。 爾来、当神社は子育てに霊験あらたかであるとして、今日まで1180余年の間、近在6町279ケ村(旧町村制当時の数)一万有余の崇敬者を有するほどになり、とりわけ氏子中に難産者が皆無であったとも言われます。 当社の御由緒には、天喜四年源義家公父子が奥州御討征の途次、再度にわたっての御参拝で奥羽鎮定と奥方の安産の神護天祐のあらたかであったため、源家累代尊襲すべきものと定められたのを始め、慶長年間藩主本堂伊勢守入国以来内室の度々の代参、文化13年には土屋相模守奥方の代参、ついで天保3年の松平播磨守奥方(二条左大臣の姫君)の代参等広く御平産祈祷をなされたことが記録されております。 とくに、文久年間からは、毎年9月3・4日の例大祭に代々講社を結び太々神楽を奉奏して大神の御心を慰め奉るなど古式豊かな祭典がとり行われ今日に伝えられています。 日移り人心の変化多き今日ではありますが、安産と育児への関心は今も変ることのないのが心情と言うものでありましょう。当社といたしましては、皆様の御信心のまゝに講社を一層拡張し、広く敬神の実を挙げたいと存じますので、左記の講社の定めを御覧いただきまして、多数御参拝下さいますよう伏して御案内申しあげます。 由緒書 |
子安神社 大同2年(807年) 駿河国富士浅間大神と鹿島大神の御分霊を鎮齋。 天喜4年(1056年) 源頼義・義家公父子奥州御討征の途次、再度にわたる御参拝で奥羽鎮定と奥方の安産を祈願。 康平6年(1063年) 征奥の大任を終え凱旋の折り、神護天祐のあらたかであったため、当社に報賽、社殿修営祭祀料の寄進をして源家累代尊襲すべきものと定めた。 棟札に残る造営の記録として、拝殿造立が寛文13年(1673年)とあり、本殿はそれ以前江戸初期の建立と云われ、以来建て替えられていない。 当社は、常陸国延喜式内社(※)28座の1つ、茨城郡「夷針神社」の論社(※)となっている。 常陸国延喜式内社とは 延長5年(927年)に編纂された「延喜式」の巻九・十「延喜式神名帳」に記載された神社。全国2861社、3132座。単に「式内社」または「式社」ともいう。 論社とは 現代において「式内社」の末裔社が判らなくなり、複数の末裔ともくされる神社が在る場合、それぞれの神社を「論社」という。 公式HP |