里中の小社。山上にも1社あるという。南から、筑波山・足尾山・加波山と並ぶ、中央の足尾山(628m)山頂に鎮座している。 創立年代は不詳。 社伝では、第60代天皇、醍醐天皇が足の痛みに苦しんでいる時、夢に足尾の神が現れたので、遠く足尾の山を遥拝すると、すぐに快癒した。足痛の全快を喜んだ醍醐天皇は、紙に御足形を印し、「日本最初足尾神社」の勅額を下賜した。 近世、足尾権現と称せられ、修験道場として著名で、上曾の大岩寺が別当寺であつた。足尾の名から足の守護神との俗信が起つた。 |
足尾山 筑波山と加波山の中間にある標高628mの山で、古くは「常陸風土記」や「万葉集」に葦穂山と記されています。 山頂は、コナラなどの落葉樹林が繁り、その中に足尾山神社が建立されています。社伝によると、延喜20年(920)ころ醍醐天皇が足病消除祈願のため与えた勅額は野火により焼失しましたが、寛正5年(1464)御所へお願いし再び勅額と菊の紋入り喇石が与えられ、足の病を治す神様として信仰が高まり、信者が草履やわらじを奉納する風習が生まれたと言われています。 社頭掲示板 |
足尾神社 標高627メートルの足尾山頂に鎮座されておりますので「足尾神社」の名があります。足尾山は日本最古の歌集『万葉集』に次のように見える山です。 筑波嶺に背向(そがひ)に見ゆる葦穂山(あしほやま)悪しかる咎(とが)もさね見えなくに 筑波嶺から後ろに見える葦穂山、あしというほどのあらもぜんぜん見えないあの人 (小学館「完訳日本の古典」の訳) 岩波「日本古典文学大系『万葉集』」の頭注に、asiFo→asiwo→asioとあるように「あしお」と発音されるようになったのは、平安時代からであろうと思われ、そのころから「足尾」の字を当てるようになって「足」の神の鎮座する山という信仰が生まれたものです。 なお、「葦穂山」は『常陸国風土記』新治郡の条にも 郡(こほり)より東五十里に笠間の村あり。越え通ふ道路(みち)を葦穂山と称(い)ふ。 とあり、この「葦穂山」も現在の「足尾山」を指すとするのが通説ですが、歴史情報誌『常総の歴史』所収の論文等には、古代の葦穂山は現在笠間市にある「鍬柄山」(276m)に比定されるとする説が述べられています。 当社は、明治初年の神仏分離以前は山麓の大岩寺という寺院が維持管理していましたが、大岩寺がしばしば火災に遭い、記録類一切を失いましたので、神社の創建年代は明らかではありません。 社伝によれば、第60代の主上、醍醐天皇が御足痛に苦しみなさった時、夢に足尾の神が現れたので、遠く足尾の山を遥拝なさったところ、 たちまち快癒なさったとのことです。御足痛の全快を喜ばれた醍醐天皇は、紙に御足形を印し、「日本最初足尾神社」の勅額を下賜されましたが、その勅額が野火により焼失したので、寛正5年(1464・室町時代)6月、御所へ再下賜を頗い出たところ、再び勅額と菊桐入り喇石の下賜があったと伝えられています。当時の御立会・井関大蔵卿外4名の令旨書を足尾山別当が代々伝えてきましたが、神仏分離の混乱期に散逸してしまいました。 以上のように社伝に醍醐天皇の御名があらわれ、また式内社の「夷針神社」は当社を指すとする説が有力で、全国式内社一覧にも記載されていることからしても、当社が全国的に見ても由緒ある古社であることが明らかです。 文治の初め(1185)ごろ、源義経の家臣、常陸坊海尊がこの山に籠もり、杉室(山頂より石岡市側に1キロほど下る)で荒行して以来、足尾山は「足尾山大権現」の名のもとに修験道の霊山・修行道場として広く知られるようになりました。当山で修行した行者・修験者が諸国を行脚しながら、足尾神社が足病消陰に効験ありとする神徳を全国に広め、それにより足の諸病に悩む崇敬者の参詣がにわかに多くなりました。 そのころから醍醐天皇がお寄せになった足形に因む「足形の御影(みえい)」と称する手形・足形の御神札を参詣者に頒布しています。この神札の効験については別項を御覧下さい。 また、当社の神の御加護により足痛;遅病から解放された信者や足の保全・鍛錬を祈願する信者が鉄・銅製の草鞋(わらじ)・草履を奉納する風習があり、一時は奉納殿に山と積まれていましたが、戦後の金偏景気の際に盗難に遭い、今は靴・スニーカー・サンダル等の奉納に形を変えて絶えることなく続いています。 公式HP |
郷社 足尾神社 祭神 國常立命 面足命 惶根命 創立年代詳ならず、天保14年11月社殿焼亡の事あり、明治維新の後社絡制定に当り郷社に列す。社殿は本殿、拝殿、其他神楽所、社務所、奉額所等あり、境内は444坪(官有地第一種)たり。 明治神社誌料 |