夷針神社
いはりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】夷針神社 常陸国 茨城郡鎮座

   【現社名】夷針神社
   【住所】茨城県東茨城郡茨城町大戸1768
       北緯36度19分16秒,東経140度25分10秒
   【祭神】澳津彦命 奧津姫命 (配祀)武三熊大人 興玉命
   【例祭】2月11日
   【社格】旧村社
   【由緒】神亀2年(725)9月29日創建
       応永33(1426)水戸城落城の時武熊大明神合祀
       明治45年4月村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「武隈明神社」「両社大明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】素鵞神社・疱瘡神社

祭神はかまどの神。聖武神亀2年9月29日創建という。平地に鎮座する。応永33(1426)水戸城落城の時兵火を避け、武熊大明神を大戸の夷針神社に合祀する。


夷針武熊大明神 縁起

夷針武熊大明神 縁起
延喜式、大日本3132座の宮社、当国二八社なる夷針神社は大戸(村)に鎮座し小社なり。
当時那珂の里なりしも時代の変革に伴い、茨城の里に彊を更う。
奉安せる祭神は興津日子命・興津比売命の二柱にして、人皇第45代、聖武帝神亀2年乙丑9月29日(西725)の創建なり。
夷針の神は所謂竈の神にして霊験あらたかに業厚招福、守護安体を司どる神なり。
由りて古くより、庶民の信仰を集む。
抑々平氏の曩祖、高望王常陸太守に任じ国□を常陸国の平邑に建つ則ち後の府中なり。
爾来常陸大掾をして国政を俾監せ俾む。
后来大掾の子孫連綿、而して馬場城より水城にうつり、住みて数代。
時恰も応永33年(1426)奥鎮守将軍藤原秀郷12代の後裔江戸但馬守通房満幹、の出城を窺ひて而して虚に乗じ之攻、終に水戸城を獲、満幹落城の日。
大掾氏家臣、鯉渕城主、根小屋伊勢守武□を兵災より大戸に避け夷針の宮に神霊安□□事己んで併せ祀り今に至ると、云爾。
由緒縁起次第、伴の如きなり。
昭和60年乙丑11月吉日
撰文 打越敬道

社頭掲示板



大戸のサクラ

大戸のサクラは、赤芽のヤマザクラの老大株で、樹齢約500年を数える。
 現在の根元周囲約10.4m、高さ約15mであるが、大正時代ごろには、約1,000m2(300坪)の範囲に枝をひろげていたという。  鼻は白色で直径約3cm。花期は4月20日ごろである。
 水戸黄門として知られている徳川光圀公が、このサクラを鑑賞したと伝えている。

社頭掲示板



夷針神社

夷針は伊自牟と訓べし、(印本イハリの仮字はわろし)和名鈔、(郷名部)夷針、(今国人ヒナハリと唱ふ)○祭神詳ならず○在所分明ならず
地名記に、大戸邑、(参考同じ)祭神奥津彦命、奥津姫命鎮坐に、今廃不知其所、或大戸村不詳と云り、」中山信名云、今和泉村愛宕社あり、俗和泉のあたごと云、大戸村なるは後世の所爲也、未孰れかしらず、

神社覈録



常陸国INDEXへ        TOPページへ


認定こども園