鴨大神御子神主玉神社
かもおおかみみこかみぬしたまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】鴨大神御子神主玉神社 常陸国 新治郡鎮座

   【現社名】鴨大神御子神主玉神社
   【住所】茨城県桜川市加茂 694
       北緯36度21分2秒,東経140度9分35秒
   【祭神】主玉神 大田田根子命 別雷神
   【例祭】11月14日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】神武天皇8年創立
       和銅4年(711)始めて賀茂祭執行
       弘仁3年(821)弘法大師空海が参詣
       貞観3年9月23日従五位上
       貞観四年(862)正一位
       寛平9年(897)始めて臨時祭執行た
       永承・治暦の頃、社殿造営、社領寄進
       後醍醐天皇大般若経六百巻を奉納
       永享12年(1440)3月足利持氏の遺子安王丸参詣
       応永年中佐竹義盛社殿造営
       永禄12年(1569)佐竹義重社殿を造替
       天正18年(1590)義宣は神前て家中の起請文を徴した
       明治6年村社
       同13年6月4日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「鴨神社」と称していた
   【社殿】本殿流造トタン葺
       拝殿

   【境内社】八坂神社
   【神宮寺】普門院は元来は神宮寺であつた

社伝では、神武天皇8年、京都の下賀茂神社の分霊を奉斎したとしている。
古くは上中下の三社に分かれており、上社(当社)に別雷神、中社に皇子尊、下社に皇祖尊が祀られていた。
集落の外れ、田の中に島状になっている。
かつて源頼義が勅命で奥羽の反乱の鎮圧に向かう際、当社に参拝、大願祈願、戦勝祈願を行いその後、奥羽平定の帰路に当社の社殿を修営しましたが、鳥居は新造しなかった為、以後鳥居のない神社となった。


鴨大神御子神主玉神社

昔、鴨神社の山の奥に山姥が住んでいて、子供達や村人に悪さをしていた。康平年間源頼義公、勅命により安部貞仁討伐の時、山姥を成敗し、首を切り、竹の枝に首を刺し鳥居に掛けて見せしめにした。村人たちは大神の鳥居が穢れたことと怨念を恐れ鳥居を取り壊し現在のところに杉の木を植え、注連縄を掛けて生鳥居としている。
今も、氏子の家々では、竹には怨念があるとして竹を植えることを嫌い、竹を植えると家が潰れるという言い伝えがあり、現在でも竹を植えない習慣がある。

伝承



鴨大神御子神主玉神社

茨城県指定有形文化財 書跡
大般若波羅密多経 336巻
大般若経を所蔵する当社ハ、延喜式神名帳に登載された有名神社で、古新治郡三座の一つで社宝の大般若経(伝600巻)は、昭和41年3月7日県文化財に指定された。
大般若波羅密多経とは、普通「大般若経」といわれ、古代印度で成立した経典である。
中国唐の時代、高僧玄奘(三蔵法師)が梵語を翻訳したもので、全部で600巻からなる。
・「大」は、梵語の摩訶のことで、すぐれている。大きいこと(広大無辺)
・「般若」は、最高の真理のこと(智慧)
・「経」は、釈迦の広めた教えを文章にしたもの(経文)
当社の大般若経の成立については、詳らかでないが、巻末の奥書によって、鎌倉時代末期から江戸時代に渉って、書写され寄進(奉納)されたもので、途中文和3年(1354)篠澤院主舜円によって多数修復され、また延宝5年(1677)加茂郡の住人足立惣左衛門・足立弥兵衛が二世安楽のため修理願主になっている。特に後醍醐天皇・天長地久・王道■呂を願って大般若経御寄進の奥書は注目されてよい。
桜川市指定有形文化財建造物
鴨大神御子神主玉神社本殿 一棟
指定年月日 昭和55年5月12日
当社の現本殿は、永禄12年(1569)8月、佐竹義重によって修造されたもので、その後子息義宣の「名弘めの式」を行った。佐竹氏ゆかりの神社である。
本殿の様式は、桁行1.5間、梁間1.5間、身舎に脇障子、回廊、高欄、向拝ををつけた流造りで、屋根は銅板葺(もとは茅葺)、軒は二軒繁垂木、木鼻は獏鼻、また流破風板の拝懸魚や降り懸魚に三巴を配したのは珍しい。佐竹氏との関係を知る大棟の鬼板と虹梁中備の蟇股には、佐竹氏の紋所「日の丸五本骨扇」が刻付されている。
全体的に本建築は、簡素豪壮で戦国争乱期の特色を知る貴重な文化財である。
平成10年10月
桜川市教育委員会

社頭掲示板



鴨大神御子神主玉神社

鴨大神は賀茂乃於保美加美と訓べし、御子は假字也、神主玉は加牟奴志多萬と訓べし、○祭神明か也○鴨辺村に在す、今茨城郡に属す、(地名記、鎮座)、例祭月日、
鎭座に、在中郡庄鵞毛辺村、今賀茂村也、所祭大田々根子命と云り、』衣關貫云、在羽黒村、称鴨大神御子神社、
神位、官社
文徳実録、嘉祥3年6月己酉、詔以常陸国鴨大神御子神主玉神、列於官社、三代實録、貞観3年9月23日甲午、授常陸國從五位下主玉神從五位上、

神社覈録



郷社 鴨大神御子神主神社

祭神 大田々根子命 別雷命
創立年代詳ならず、文徳實録に文徳天皇嘉祥3年6月官社に列せられ、延喜の制式内小社に列せらる、神位は仁寿元年正月正六位上を奉授せられ、三代實録に清和天皇貞観3年9月從五位上を奉授し、爾後累進、遂に正一位の極位に至らせ給へり、源頼義北伐に当り捷を当社に祈り、後康平6年8月増築、応永21年修繕の事社藏棟札に見えたり、永享12年足利安王兵を起し、事成るの日郡内一所を納めんことを誓ふ、永禄12年佐竹義重再建す、(棟札)由来佐竹氏世々当社を厚く崇敬し、常に営繕を怠らざりしと、慶長7年先規に依り社領三石を寄奉る、正保年中邑主井上正利又厚く崇敬し、親ら額を書して奉りしが、牧野氏領主たるに及び最も厚く崇敬し、当社を以て四十二ケ村の鎮守とし、簾米拾苞を寄せ奉り、常に封土の安静を祈りしと云ふ、明治6年村社に列し、12年6月更に郷社に昇格す、
当社古来著名の神社にして、蔵する所古文書頗る多かりしと、二十八社考に云く、
「庫中有、白河法皇鳥羽帝綸旨、及後醍醐帝元享3年所勅寄大般若経、毎巻尾有御名、又有伊予守源頼義所奉扇作刀、菊作太刀、金銀酒器磐及八幡太郎義家催月刀、西明寺時頼鱗形作大刀凡六品、後醍醐帝建武2年2月所蔵証書今見在。然以佐竹氏命藏以石櫃埋之於祠下地中」
と、現今尚所藏せるや否やを知らず、
社殿は本殿、拝殿、境内は1540坪、(官有地第一種)あり、丘陵にして鴨山と称す、

明治神社誌料



常陸国INDEXへ        TOPページへ


学校統廃合