佐白山頂。笠間城天守の跡に在る。登りは険しい。巨石が多い。 現在もと笠間城の在つた佐白山の山頂に鎮座するが、これは明治維新によつて同城が廃せられたのち、明治5年に、それまで祀られていた笠間の隣村下市毛村字田宿から、元来の社地と伝えられる現社地に移されたものである。 |
佐志能神社 ここ佐白山は、古くから正福寺や百坊があって、信仰の山として栄えていた。鎌倉時代の初め、正福寺と徳蔵寺の勢力争いの結果、下野国からつかわされた藤原時朝が正福寺と百坊を毀して城を築き笠間氏を名乗って此の地方を支配した。 笠間氏は18代続き天正18年(1590)に滅んだ。その後蒲生、松平、小笠原、□□、□□、井上、本庄などの諸氏が□□いたが、延享4年(1747)から廃藩まで、牧野氏の居城となった。明治初年、本丸下屋敷などの殆どがこわされ、今は苔むす石畳を残すのみとなったが、自然の要害をたくみに利用した関東地方では珍しい山城の遺跡である。 社頭掲示板 |
笠間城について ここ佐白山は「お城山」ともよばれ、市民に親しまれている。それは今から七百数十年の昔、鎌倉時代に笠真地方初代の領主笠間時朝によって、十六年の歳月を費やして築かれた山城があり、明治の初めまで約六百年間、地方政治の中心であったからでもある。 城の面積はおよそ16000uと推測され、天然の他形を巧みに利用して「三曲輪」「二の曲輪」「帯曲輪」「殿守曲輪」を設け、曲輪には白壁の塀をまわし、出入口を城門でかため、要所には「宍ヶ埼櫓」「八幡台櫓」「殿守櫓」を配置し、守るに易く攻めるに難い要害堅固な山城であった。今は苔むした石垣、礎石などが、ありし昔をしのぶようすが残るのみである。想を江戸の昔にはせれば、緑なす木の間がくれに遥かの地から望み見た城の城壁、山頂に八万石の威容を誇るかにそそり立つ二層の殿守、それは典型的な山城であり「桂城」とたたえるにふさわしい名城そのものであった。 社頭掲示板 |
大黒石 鎌倉時代の初め、佐白山の僧兵と、七会の徳蔵寺の僧兵がその勢力を争って戦った。佐白山の僧兵は戦いに敗れて佐白山頂近くまで逃げのび、山上にあった大黒石をころがした。 徳蔵寺の僧兵は、ころげ落ちる大黒石の下じきになり多くの死者が出たため、佐白山の僧兵は、あやうく難をのがれることができた、大黒石は、そのときここまでころげ落ちて止まったといわれています。この大黒石の中ほどに小穴があり大黒のおへそといわれ、このへそに小石を三度つづけて投げそのうち一つでも入れば、幸せがあると伝えられています。 環境庁・茨城県観光物産課 社頭掲示板 |
佐志能神社 佐志能は假字也○祭神佐自努公祖歟○高友村に在す、(地名記、鎮座)、例祭月日、〇姓氏録、(未定雑姓河内國) 佐自努公、豊城入彦命之後者、不見、 式社考云、在染谷村、(参考同じ)今地名記、鎮坐等に從ふ、 官社 続日本後紀、承和4年3月戊子、常陸國新治郡佐志能神預官社、以此之中特有霊験也、 神社覈録 |