桂中学校北に鎮座する。 大宝元年(701)大杉に神が降臨したと伝える。 この神は童子の姿で、手に粟穗を持つて降臨されたという。この神が降臨されたという老杉があつて、これを「降子の大杉」という。幹周6.2m、樹高約25mであったが昭和47年9月18日落雷炎上した。 親鸞聖人の大山草庵跡と書かれた石碑が立っており、当地が、親鸞の「開宗宣言」の地だと伝える。 |
阿波山上神社 神代の昔当神社の御祭神少彦名命が大杉の本に降臨されたと言う。 人皇第42代文武天皇大宝元年里人は此処に神祠を奉じ隆木明神と呼びその杉を御神木と定め大杉様と称して崇拝してきた。この杉は樹齢およそ一千年高さ33m周囲目通り7m第二代のものとも伝えられる。昭和47年9月18日夕刻大雷雨ありこの御神木に落雷火災を発生した。大木が為噴出する火の粉は周囲50mに達し桂村消防団員の総力を挙げての消火作業にもかかわらず二昼夜にわたって燃え続けようやくにして鎮火した。 火災後日を経るに従って樹勢とみに衰え生立木としての見込みを失い倒壊の危険を憂慮すされるに至った。よって氏子中に諮り昭和48年7月5日神社本庁総理の承認を得てやむなく伐採処分にした。 ここに聖木を偲び後継としてこの杉の□苗を植え玉垣を巡らすとともの記念碑を建立して大杉様の由来を永遠に伝えるものである。 社頭石碑 |
大山草庵の由来 大山草庵の由来(開宗宣言の地) 浄土真宗の開祖、親鸞聖人は、建保2年(1214)越後の国から常陸にはいり、建保4年(1216)には、ここ大山の地に足を運ばれ、ここ常陸奥郡の布教伝道の中心地とされました。 当時、大山には、聖人の師法然の孫弟子であった行観上人が、建暦2年(1212)に開山したといわれる浄土宗の阿弥陀寺がありました。親鸞は、師法然のゆかりの寺を頼って。この地にこられ、その境内に草庵を結び、諸公達の懇願により建保4年11月8日には、法然の三回忌法要を三尊六高祖を安置され、厳かにとり行われました。従って、これを真宗興行の法要といい、大山草庵は開宗の地と言われています。 聖人の教えを受けた人たちは数多く、なかでも入信房、明法房は有名であります。その後、二代定信、三代如証、四代信善、五代信真、六代真順と続き、七代信如の明徳3年(1392)に額田城主小野崎下野守昭進の懇願によって、額田堀の内に移り、額田城の守護寺となりました。以来、血脈相承により、現在に至っています。 一方浄土宗阿弥陀寺は、水戸藩主徳川斉昭公の寺院整理によって天保13年(1842)に廃寺となり、今は往時を偲ぶものとして古い墓石が散見されるだけであります。(桂村史談会) 社頭掲示板 |
阿波山上神社(佐加利子明神) <由緒>大宝元年(701年)10月創建 少彦之命が粟穂を手に童子の姿で老木に降臨。 「降木(さがりこ)明神」と称する <祭神>少彦名命(すくなひこなのみこと)…農業 酒造 医薬 温泉の神 <配祀>軻遇突智命(かぐつちのみこと) 菅原道真(すがわらのみちざね) <紳紋>右三巴 <神木>降子の大杉(昭和47年9月8日落雷。48年7月5日伐採。口苗移植。) <神田>阿波山一丁田 約2000u <神水>明神御手洗降木水と言い、当社西方98間余にある <社宝>扁額「阿波山上大明神」(伝嵯峨天皇筆) 長鼓 猿田彦面 縁起書 棟札2枚 <格式>延喜式内小社(常陸国那賀郡)旧郷社(明治6年8月1日) <祭日>1月1日 元旦祭 6月15日御田植祭 新暦 2月20日春祭(祈年祭) 8月31日(嵐徐祈祷祭) 3月15日旗揚げ 11月26日 秋祭(新嘗祭) 4月15日例大祭 <禁忌>少彦名命が、大国主の到着を待つたが現れず「待つ(松)のはつらい」ことから近隣では松を植栽しない <氏子>阿波山・粟・上下阿野沢地区 約500戸 <境内社>天王神社(素盞鳴命)八幡神社(応神天皇)稲荷神社(倉稲魂命) 春日神社(天児屋根命)山倉神社(大物主命)庖瘡神社(月読命) 富士浅間神社(木花開耶姫命) <末社>>雷神社(加茂別雷神)・・粟の雷公脇 社頭掲示板 |
阿波山上神社 阿波山上は安八夜萬乃宇倍と訓べし、和名鈔、(郷名部)阿波、○祭神少彦名命(地名記、鎮座)、O大山村に在す、今茨城郡に属す、(同上)例祭月日、 鎮坐に、古老伝言、昔者大山村呼爲上粟山、粟野村呼為下粟山、祠即在二村之上、故祠有阿波山上之称矣と云り、 神位 三代実録、仁和2年12月9日癸巳、授常陸國從五位下阿波神從五位上、 神社覈録 |
郷社 阿波山上神社 祭神 少彦名命、 御神体は童形に座ます、古老伝云ふ、文武天皇大宝元年、祭神童形にて手に粟穂を持ち、杉樹に降臨し給へりと、故に降木明神と称奉る、本殿の坤方、降木山、降木原等あり、是實に当國に始めて粟を生ぜし処なりと、里俗大に粟を重じ、其の茎幹と雖も壇屋に葺ことを禁ずと、(〇明細帳、社伝、廿八社考、新編常陸国誌)光孝天皇仁和2年12月癸丑從五位下阿波神に從五位上を授奉られしこと三代實録に見え、延喜の制式内小社に列せらる、中世此地佐竹氏に属するや世々厚く崇敬し、天文10年義在、(〇棟札有)天正10年義勝(〇棟札有)社殿を再建し奉り、又正長元年義舜軍に臨んで祈る所ありたり、古来阿波山、阿波、上下阿野沢の四ヶ村の鎮守にして、社領の如き六石六斗九升九合の徐地を有せしが、水戸城主徳川齊昭更に十五石の地を寄奉る、明治維新の後、郷社に列す、 社殿は本殿、拝殿、境内は1446坪(官有地第一種)及近時編入せられし上地林一反九畝二十七歩よりなる、黒崎氏紀行云、此の社地より勾玉を出し、雨後など拾得せるもの往々ありと、 明治神社誌料 |