小瀬小学校の前に鎮座 もとは現社地より東1Km程距つた立野山に鎭祭され、鹿島神社と称したが、近世、現在の白幡山に移された。 『新神社誌』には「慶長年中、佐竹の族義隆、白旗山の鹿島神社に合祀し立野鹿島神社と尊称、小瀬の総鎭守とした」とある。 |
立野神社由緒 鎮座地茨城県那珂郡緒川村大字上小瀬(下郷白幡)351番地 一、 祭神 級長津彦神 級長津戸辺神 (大和国龍田宮風伯神と同体と伝えられている) 二、 創立 創立年代不詳 当社は物部氏の族立野の連が鎮斎したと伝えられているが、延喜式神名帳に「常陸の国式内社二十八社の第十一座久自郡立野神社」とあり、式内社は大化2年から3年(大和時代)に建立されたものが多く、当社もその頃の創立と考えられる。 三、 沿革 日本三代実録に「貞観16年(平安時代)正六位を授贈せり」とあり明應9年(室町時代)には正三位を授贈されている。 当時の社域は、現社域より東南東約一キロの西塩子境の立野山の山腹にあったが、天正年間(安土桃山時代、一説に天文18年 室町時代)佐竹氏の族小瀬庄三郎義隆が村民と相談の上、村の中央白幡山の鹿島神社に合祀し、立野鹿島神社と尊称し小瀬の総鎮守とした。天保5年(江戸時代)藩主源烈公より地方二十一石寄付され、また、明治5年には徳川昭武君より水戸家重宝の塗弓一張が奉納された。翌6年には三十ヶ村の郷社に列格同40年には供神指定神社となった。昭和27年からは宗教法人立野神社として運営されている。 平成5年4月29日、佐竹七福神の一神「身代り大黒天」が奉安され、また、翌6年5月には「平成御大典記念」の三年有余の歳月をかけた整備事業竣功となり、神域も整備され荘厳さを増し、社頭も愈賑々しくなってきている。 四、 祭日 春季例祭 3月19日 秋季大祭 11月5日 祇園祭 6月第二土曜・日曜 社頭掲示板 |
立野神社 【御 祭神】 級長津彦神 級長津戸辺神 【御 神徳】 農業の神様として崇められ、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、その他諸々の御祈祷の末社有り。 【御 由緒】 延喜 式神明帳に常陸国久自郡立野神社とあり、大和国龍田神社と同体なりとも記されている。 創立年代不詳、ただし、式内社は大化2・3年頃創立されたものが多いので、大化年代の創立だろうと社伝にあり。 現在地には、天正年間、佐竹氏の族小瀬庄三郎義隆が村民と相談し、白幡山の鹿島神社と合祀し、小瀬の総鎮守とした。 【祭 礼】 春季例祭 3月19日 秋季例大祭 11月 5日 嵐除け 8月31日頃(210日前後) 月次祭 毎月1日 6時 祇園祭 6月初旬の土曜日(境内社素鵞神社祭礼) 【文 化財等】 徳川昭 武氏奉納の弓一張 [七福神] 茨城県北部の「佐竹七福神巡り」・身代わり 大黒天奉安 茨城県神社庁 |
郷社 立野神社 祭神 級長津彦命 級長津戸邊命 御神体は神鏡に坐ます、創立年代詳ならずと雖も、延喜の制式内小社に列せらる、按るに式社と称する中には大化年間の創建に係る者多し、故に当社も亦其頃創建ならんか、三代實録に清和天皇貞観16年5月11日從五位下を授けらる、先是正六位上たり、爾来授位数回、明応9年正三位たり、社地元と立野山に鎮座あらせられしが、天正年間佐竹の族小瀬義隆今の地即白幡山に奉遷す、時に小瀬の郷の総鎮守と称奉り、徐地壹石六斗八升五合を寄進す、先是大永5年の棟札を藏す。降て天保5年徳川斎昭地方二十一石を寄奉る、明治維新後、三十ヶ村の郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、境内は796坪(官有地第一種)全山杉檜鬱蒼とし、東北の一隅は断崖絶削、社頭緒川の一流迂曲して深淵を為す、御手洗淵と云ふ、風景甚佳。祠前一老杉あり、周囲一丈八尺、鬱とし天に参す、俚俗三俣杉と称す、外に大郎杉あり、之れ亦名木たり。 当社の祭神は、古来級長戸辺命と傳ふ、然るに学者近時之れを疑ひ、立野連及久自國造の祖物部建彦連を祭る所とす、姑く附記して後考を俟つ、 明治神社誌料 |