下野宮小学校北に鎮座する。 境内に鉾スギ(天然記念物)がある。 |
鉾スギ 茨城県指定天然記念物第一号 鉾スギ 昭和6年10月13日指定 管理者 宗教法人 近津神社 樹齢 1200有余年(推定) 樹高 43m 幹囲 9.6m 鉾スギは近津神社の神木として、同社勧請の際植えられたものといわれる。名称は、その昔、源義家(八幡太郎)が奥州平定に赴く際、ここ近津社に立寄り、自らの鉾を立掛けて武運長久と戦勝を祈願したことに由来するとされている。社伝によると、康平年中(1058−1065)源義家戦勝を祈願し保三千貫文を寄進したとあり、近津神社と義家とのかかわりを示す。義家は平安後期も前九年の役、後三年の役で奥州を平定、東国に源氏の基礎を築く、鉾スギはこうした名将義家に因んだ説話の一つなのである。 近津神社は社伝によると、日本武尊の創建といわれ、慶雲4年(707)社殿造営、朝廷から神鏡・霊剣・金鈴などが奉納されたという。中世には戦国大名による手厚い庇護が語られ、近世には保内郷の郷社として広く尊崇されてきた。鬱蒼とした境内にひときわ偉容を誇る鉾スギは参拝に訪れる人の興味を引いている。 平成3年7月 大子町教育委員会 社頭掲示板 |
近津神社の中田植 中田植は、下野宮近津神社で毎年夏至の日に行われる田植祭です。夏至の日は二十四節気の中(ちゅう)に当たり、昔の田植え時期のほぼ半ばであるところから、中田植の名があるといわれています。 この田植祭がいつ頃から行われているのかはっきりしませんが、かつては水戸義公(徳川光圀)寄進の神饌田(しんせんでん)に植える習わしであったと伝えるから、江戸時代前中期にはすでに行われていたものと思われます。その後、神饌田はより拡張されたといわれています。 祭りは、まず神殿にて修祓(しゅうふつ)、祝詞(のりと)奏上、王串奉奠、田植歌奉納などの神事を行った後、田植神事に入ります。神田に注連縄が張られ、祭主(神宮)による修祓の後、太鼓、笛、鼓の奏楽に合わせて田植歌の唄われるなかを、10余名の早乙女(さおとめ)が神田に苗を植え付けます。早乙女は、浅葱(あさぎ)の襦袢(じゅばん)に赤襷をかけ、赤いもんぺをはき、すげ笠をかぶります。田植歌奏楽は、神田わきに設けられた囃子舞台にて、田植歌保存会により行われます。祭事に奉仕する人々は、氏子の中から厳重な審査を経て選ばれた男女20名ほどです。 この日は、神饌田の一部が一般の者にも開放されますので、人々は、自由に田植えに参加できます。参詣人は、五穀豊穣、家内安全、無病息災を祈願し、植え残りの苗と境内の寒竹をもらって帰ります。持ち帰った苗は家の神棚に供え、寒竹は馬に食べさせたり、田の中にさしたりします。苗は豊作のもとに、寒竹は馬に食べさせると病気に効くとのいい伝えがあります。また、境内の神馬(しんめ)舎には木彫の神馬が納められていますが、参詣人は、子供を連れてきて「はしかくぐり」と称して神馬の腹の下をくぐらせます。はしか除けになり、麻疹が軽くすむといわれています。 このほか、近津神社には、御筒粥祭、七日まち、御枡廻しなどの祭りがあります。御筒粥祭は、追儺祭に続いて正月15日の深夜行われるもので、「かゆ」によってその年の豊作物の豊凶を占うというものです。七日まちは、旧11月7日に江戸時代から行われてきた市日の名残で、豊作のお礼祭りで、神社の例祭でもあります。御枡廻しは、その年に収穫した籾を入れた枡を菰に包み弊束を立てたものを、当屋では10月28日に引受け、御枡小屋に奉斎し、7年を過ぎた同じ日に新しい籾を入れた御枡を次の当屋に引渡す神事です。種子の頒有が神意に基づいて行われる古い信仰を表しているものです。棚倉町八槻の都々古別神社には、種籾を「ツツコ」に入れて農民に分与するという神事があり、御枡廻しの神事と似た形を示しているのも興昧深くあります。 下野宮近津神社の祭神は、級長津彦(しなつひこ)命、面足(おもたる)尊、惶根(かしこね)尊の3柱ですが、こうした同社の祭事は、一貫して農業の守護神としての性格をよく表しています。五穀の豊かな実りは、人々の切なる願いです。近津神社の田植祭やその他の祭りには、そうした願いが色濃く表われています。 大子町文化遺産活用実行委員会 |
稻村神社 稻村は伊奈牟良と訓べし〇祭神面足尊、惶根尊、級長津彦命、(地名記)〇保内郷下野宮村に在す、(同上)例祭月日、 鎮坐には、初在上稻村、今上野宮也、今尚有小祠、世謂之為稻村本宮、文武帝慶雲4年、所経建之旧趾也と云り、 神位 官社 続日本後紀、嘉祥2年4月庚寅、常陸國久慈郡稻村神預之官社、縁水旱之時祈必致威、三代實録、元慶2年8月23日丙戊、授常陸國正六位上稻村神從五位下、仁和元年5月22日丙午、常陸國從五位下稻村神綬從五位上、 神社覈録 |
郷社 近津神社 祭神 級長津彦命 面足命 惶根命 創建は社傳に拠るに、文武天皇慶雲4年、藤原富得、夢に神あり、白羽の矢を授けて曰く、吾近勝明神なり云々と、因て八溝山の悪鬼を除去せしむるを得たりと、此事奏上に及びしかぱ、勅して此地に社を営ましめらる、是れ本社の創建なりと云ふ、本社は、元と陸奥に属し、彼の陸奥白川郡馬場近津明神の下宮なりと、後小松天皇應永13年4月源兼保、地三千貫を寄奉る、但、之れ義家の例に依ると、次いで永正11年6月、佐竹義治更に六百五十貫の地を寄せ奉りしが、徳川氏天下の権を握るに至り、社領三十六石八斗、及除地十五石八斗三升四合を寄奉る、明治維新一度村社に列せしが、後9年郷社に列す。 社殿は本殿、拝殿、其他神楽所あり、本殿は神明造りにして南に面す、壮麗にあらざるも瀟洒却て神威の高きを仰がしむ、境内は1275坪(官有地第一種)及近く編入せられし上地林二反七畝十七歩より成る、「前に八溝川を控ヘ、後に八溝山を負ふ、而かも東西老檜天を蔽ふ、蓋、自然の神地たり。 明治神社誌料 |