この地は久自国造の本拠地であったとする。 長く突き出た尾根の上に鎮座する。 成務朝の時、物部連の祖である伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の三世孫、船瀬足尼(ふなせのすくね)が久自國造に任命された時、大祖である饒速日尊を祀ったのが始まりという。一説に景行天皇40年、日本武尊が東征の折、この地に七代天神を祀り、戦勝を祈願したとも伝わる。 もとは七代天神社と称し、元禄6年(1693)に徳川光圀が村内の有力社八幡社(これも佐竹氏との関係を考えると由緒ある社であつた)を改めて七代天神宮とし、天神山に移すと共に、天神七社を合祀した。 社名も古く当社が稻村神社と称された徴証は見当らない。社名を稻村神社と改めたのは明治に入つてからのことである。 |
由緒 久自国造に物部連の祖伊香色雄命三世、孫船瀬足尼が任命されたとき大祖饒速日命を祀つたといふ。物部氏族二十五部の中に狭竹物部あり。居住によつて佐竹郷の起因となる。もと祖神を祭るのに天神に出し故に天神と呼称、又神鏡七面があつたので、七代天神とも云つた。嘉祥2年4月庚寅官社、水旱に霊験著大(続日本後紀)元慶2年8月23日丙戍正六位上から従五位下、仁和元年5月22日丙午従五位上、位田十二町(三代実録)延喜の制小社(延喜式)久慈郡七座の一、常陸二十八社の一。 一説に景行天皇40年日本武尊東征の際この地に天神七代の霊を祭ると。元禄4年4月水戸光圀公石塚へ赴く途次、佐竹村に立ち寄り里正、神主に案内させて天神と称する七社を巡見し(天神山間坂、小芝原、権現山、井之手、富士山、厳戸山)宜しく一社となすべしと諭し、現在地に合祀させた。同6年社殿竣功、公親扁額に七代天神宮と書し鳥居にかけさせ、又理神鏡七面四神旗、矛、諸神宝を献じ9月5日遷宮式、11月26日公自ら本社に詣り祭器を点検し、27日より斎戒3日、29日公衣冠をつけ、日蔭心葉をかけ太刀を帯し、親臨して祭事を厳修した。神主信秀奉仕、この時用ひし竹架長さ七尺、高さ五尺、藤蔓を以て縛す。兎鯉各七、狸七、雉雌雄各七を供ふ。祭礼は4月8日(磯浜神幸)11月17日に斎行。(新編常陸国誌)除地9石9斗3升。 明治3年1月4日郷社列格、同40年4月10日(第78号)供進指定。同27年6月16日宗教法人設立。昭和2年5月、同14年12月、同29年1月、同42年11 月、本殿・拝殿屋根替。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
稲村神社 この社は、久自国造の祖神饒速日命並びに七代天神を奉斎した神社で廷喜式、続日本後紀、日本三代実録などに載っている古社である。昔日本武尊が東方征討の折、天神七代の神々を間坂外六ヶ所にまつって戦勝を祈願したと伝えられ、元禄6年(1693)西山荘に隠棲していた水戸第二代藩主穂川光圀(義公)はこれらの神々を稲村神社に合祀して七代天神宮と称し社殿を修理し、扁額をかかげ神宝を奉納し、自ら祝詞を奏上して鎮座祭を行つた。その後も光圀はたびたびこの社に参詣した。現在の本殿は後に建てられたものであるが神明造りの特色をよくあらわしている。 常陸太田市 社頭掲示板 |
稲村神社 稲村神社の盛衰 天承元年(1131)、源新羅三郎義光の孫昌義が久慈郡佐竹郷稲木村(現天神林町)に土着し、観音寺(現佐竹寺)に入り2年後の長承2年(1133)、馬坂(現天神林町字間坂)に館を築き、郷名をとり佐竹氏を称し、鎌倉から八幡社を歓請すると、稲村神社の信仰は衰え、後に一族の稲木氏、天神林氏が馬坂城に入ったが、稲村神社への信仰は戻らなかった。 慶長7年(1602)、佐竹氏秋田へ移封後徳川氏の支配下となるが、天神林の鎮守は八幡宮であり、稲村神社の復活は無かった。 寛文3年(1663)、水戸藩2代藩主徳川光圀は、領内の鎮守・寺院・山伏等を調査して開基帳を作成し、寺社改革を開始し八幡潰しを断行し、天神林の鎮守八幡社は潰され、稲村神社が天神林の鎮守とされた。 元禄4年(1694)、隠居した光圀公は、七代天神(天神七塚とも言う)を稲村神社に合祀したと言う。 七代天神の言われ(伝承) 12代景行天皇の皇子日本武尊は、東国の蝦夷征伐で此の地を通り掛かった時に、暗雲がたちこめ行く手の山坂に妖気が漂っていた。 その妖気を取り除き勝機を得ようと七代天神を七ヶ所の地に祀り、景行天皇40年(110)に七ヶ所の嗣に神宝を奉宣したと言う。 日本武尊は、東国鎮定の帰途近江息吹山の神を征そうとして病になり、伊勢の能褒野の地で没したと言われている。 七代天神とは・‥・‥独化神(一柱の神)三代と偶生神(夫婦二柱の神)四代を言う 独化神三代 1・一代 国常立命(くにのとこたちのみこと):天神山(天神森とも言い稲村神社が鎮座している所) 2・二代 国狭槌命(くにのさつちのみこと):馬坂城内(西城物見跡の円墳上) 3・三代 豊魁渟命(とよくむぬのみこと):小芝原(現佐竹寺後(押葉平)南側台地) 偶生神四代 4・−代 泥土煮命・沙土煮命(ういじのにみこと・すいじにのみこと):権現山(馬坂城本郭跡谷を隔てた北側‥熊野神社と相並ぶ) 5・二代 大戸道命・大苫辺命(おおとのじみこと・おおとまべのみこと):井の手浮橋山(天神林町字猪手尾根南側) 6・三代 面足命・憧根命(おもだるのみこと かしこねみこと):富士山(佐竹南台団地入口道路北側の山‥富士権現と相並ぶ) 7・四代 伊弊諾命・伊弊冊命(いざなぎみこと・いざなみみこと):厳戸山(馬坂城址西側尾根の突端部‥別名石堂山) 由緒書 |
稻村神社 稻村は伊奈牟良と訓べし〇祭神面足尊、惶根尊、級長津彦命、(地名記)〇保内郷下野宮村に在す、(同上)例祭月日、 鎮坐には、初在上稻村、今上野宮也、今尚有小祠、世謂之為稻村本宮、文武帝慶雲4年、所経建之旧趾也と云り、 神位 官社 続日本後紀、嘉祥2年4月庚寅、常陸國久慈郡稻村神預之官社、縁水旱之時祈必致威、三代實録、元慶2年8月23日丙戊、授常陸國正六位上稻村神從五位下、仁和元年5月22日丙午、常陸國從五位下稻村神綬從五位上、 神社覈録 |
郷社 稲村神社 祭神 饒速日命 創立年代詳ならず、社伝によるに、景行天皇四十年、日本武尊東征の際、此れに天神七代の神霊を奉祀せるなりと、續日本後紀に、 「嘉祥2年(仁明天皇)4月庚寅、常陸國久慈郡稲村神、預之官社、縁水旱之時祈必致威」と、見え、次いで陽成天皇元慶2年8月正六位上稲村神に従五位下を授け、更に、光孝天皇仁和元年、従五位上を加へ給しよし三代実録に見えたり。 元来久慈郡は、饒速日命の子孫國造なれば 國造本紀祖先部属の居地に、其祖神を祀りしなるべし、延喜の制式内小社に列せられ、中古以来七代天神又は佐竹天神と称す。その祠七あり、元禄4年徳川光圀親しく巡観そて曰く、「是天神七代を祀る者にして、菅神を祭るにあらず」と、即ち社殿を造営し七社を合して七代天神と称し、神寶神器竝に額を納めて遷宮の式を行う。時に光圀親しく幣帛を奠せりと、社領としては九石九斗三升餘の除地ありたり、明治維新の後社格制定に當り郷社に列する。 社伝は本殿、拝殿、其の他神楽所を有し、境内は968坪(官有地第一種)及四反三畝九歩の上地林より成る。或る説に云く、隣村に稲木村ありて稲村の村は材の誤かと。 明治神社誌料 |