社名の「静」は、倭文(しづり、しどり)からの転訛とされ、各地の倭文神社同様、織物の神を祀るとされる。 現在の主祭神・建葉槌命は、もとは境内社・高房社に祀られており、それまでは、手力雄命を主祭神とし、左殿に高皇産靈命、右殿に思兼命を祀っていたという。 |
由緒 創建の時期は不明であるが、六国史の一である「文徳実録」に「文徳帝嘉祥3年(850)9月、使を遣して静神社に奉幣せしむ」とあるのが、国史上における初見である。同じく「三代実録」には「光孝天皇仁和元年(885)5月」神階が従五位上に進められたことが書かれてある。日本書紀(720)古語拾遺(807)にも建葉槌命についの記事が出ている。特に「延喜式神名帳」(927)には、鹿島神宮などとともに「名神大」としるされている。豊臣家からは社領150石が寄進され、徳川家からも同額の朱印が付されている。 かつて、この付近は、現在の静神社を中心として、三つの神社が鎮座し、更に七つの寺院がこれを囲んで、大きな霊地を形成していた。また、この地は水戸から奥州に通ずる棚倉街道に面し、交通の要地でもあり門前町、宿場町として、いんしんをきわめていた。いまなお残っている下宿・中宿・門前などの地名や、藤屋、伊勢屋、池下屋などの屋号が、これを物語っている。静を中心にした郷名を、倭文郷と称したが、この名の起こりは倭文神の神名によるもので、倭文を「シドリ」と読むのは「常陸風土記」(713)にある「静織ノ里」の「シツオリ」の約言うである。 静神社は水戸藩の祈願所と定められ、藩主は代々参拝するのを常例とされた。また社殿の維持管理は、神殿修葺の法を定めて、藩費によって行なわれた。二代藩主徳川光圀(義公)は、寛文7年(1667年)10月仏寺を分離し、唯一崇源の神道に改め、本殿・拝殿・神門・玉垣・神楽殿等を新に造営するとともに、神楽乙女八人、神楽男五人をおいて大大神楽を奏することとした。然しこれらの社殿は、天保12年(1841年)火によって惜しくも焼失し、同時に多くの神宝、古文書等も失った。現在の社殿は、その焼失後、九代藩主徳川齊昭(烈公)によって再建されたものである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
文化財 国指定重要文化財 銅印 県指定文化財 絵本着色三十六歌仙 静神社は、鹿島神宮、香取神宮とともに古くは東国の三鎮護神と称され、また常陸国の一の宮鹿島神宮に次いで二の宮といわれ、由緒の古い神社である。祭神の建葉槌命は、日本で初めて織物を織り出された神といわれている。水戸第二代藩主徳川光圀(義公)は静神社を特に崇敬し、社殿を改築して宝物を奉納されたが、天保12年(1841年)火災で焼失し、現在の神明造の社殿は水戸第九代藩主徳川斉昭(烈公)によって再建されたものである。宝物には奈良時代末期の作といわれ、「静神宮印」と刻まれた銅印がある。なお、この地方は昔、「静織の里」とよばれ、初めて織物(綾織)を織ったところと伝えられている。 社頭掲示板 |
静神社 一、御祭神 主祭神 建葉槌命 相殿神 手力雄神 高皇産霊尊 思兼神 建葉槌命は又の名を倭文神と申し織物の祖神でもあります 一、由緒 静神社は御鎮座の年代が明らかではないが「延喜式神名帳」に「名神大社」として記載されてあり、常陸國では一ノ宮鹿島神宮についで二ノ宮として 皇室を始め 将軍家一般民衆の尊崇を受け 古くから御神威の宏大な神社として 著名であります 水戸藩主徳川家は 当神社を祈願所と定め特に崇敬が篤かった 奈良時代末期の作と言われる宝物の銅印には「静神宮印」と刻まれてあって 古くは神宮として格式が高い神社であった事がわかります 一、祭日 例祭 4月1日 田植祭 6月5日 秋季大祭 11月25日宵宮祭・織物祭 仝 26日初日祭 仝 27日二日祭 一、社宝 銅印 国指定重文 三十六歌仙 県指定文化財 社頭掲示板 |
静神社の由来 静神社は、かって、東国の三守護神として鹿島神宮、香取神宮、静神社として崇拝されてきました。延喜式名神名帳(927年)にも、鹿島神宮などとともに、「名神大」と記され豊臣家から社領として、150石が寄進され、徳川家からも同額の朱印が付されたいます。常陸ニの宮としても古くから信仰を集め、初詣、節分祭、そして神事の「つた舞」「お笹明神」が行われる秋の大祭(11月25日〜27日)は、多くの参拝客でにぎわいます。主祭神は 建葉槌命(武神) (たけはづちのみこと) 名倭文神(織物の祖神) (しどりのかみ) 相殿神は 手力雄命(たじからのみこと)高皇産霊命(たかみむすびのみこと) 思兼命(おもいかねのみこと) でもある神門の前には、昔ここが織物の里であったことを示す『常陸国風土記』の碑が建っています。 本殿には国の重要文化財に指定されている社宝の銅印が納められています。水戸藩主徳川光圀公が社殿を修造する時に本殿脇の大きな桧の根本から『静神宮印』とほられた銅印がみつかったことを大層よろこび、黒塗りの箱に納めて社宝として神社に蔵したとされています。 天保12(1841)年の火災で、徳川光圀が造営した社殿が焼失。現在の壮厳なたたずまいの本殿・拝殿は、水戸家9代藩主斉昭が再建したものです。 殷賑を極めた霊地 かつて、この地は3つの神社が鎮座し、さらに、7つの寺院がこれを囲んで大きな霊地を形成していた。また、水戸から奥州に通ずる棚倉街道に面し、交通の要地でもあり、門前町、宿場町として、殷賑をきわめていた。現存している下宿、中宿、門前の地名や藤屋、伊勢屋、池下屋などの屋号はこれを物語っている。静を中心に郷名を倭文郷と称したが、起こりは倭文神の神名によるもので、倭文を「シドリ」と読むのは、「常陸風土記」(713年)にある「静織の里」の「シツオリ」の約言でもある。 鹿島神宮との関わり 鹿島神宮との関わりは古くからあり、常陸一ノ宮、二ノ宮と並び称されているばかりではなく、鹿島神宮の境内に高房社として、静神社が祀られ、拝殿にお参りする前に高房社にお参入りするほどです。また、奥宮の建立に際して、静神社の木が用いられ、海を渡り、鹿島の下津(おりつ)の港に運ばれ、海側から鹿島神宮に運ばれたといいます。 由緒・沿革 帝青山に祀られている延喜式内社で常陸二の宮、那珂三三ヵ村の鎮守である。地元では「お静さん」と呼ばれ親しまれている。 和銅6年(713)に撰進された『常陸風土記』久慈郡の項に「郡西口里氏静織里、上古之時、未識織綾之機、因名之」とあり、この地が静織里と呼ばれ、機織の技術を持っていたことが分かる。この技術をいち早く伝えたのが静神社の祭神建葉槌命であった。建葉槌命は文布(倭文)という綾を織って天照大神に仕えたので倭文の神といわれている。 『万葉集』巻二〇には天平勝宝7年(755)2月、防人として九州に赴いた常陸国の倭文部可良麻呂の詩が掲載されている。倭文部は機を織ることを業とし、建葉槌命を祖神として奉斎していた。『常陸万葉風土記考』の著者宇野悦郎は、倭文部可良麻呂も、この地方で倭文を織っていた倭文部の一員であったと推察されており、静神社の創建は八世紀に遡る可能性もある。 また、祭神建葉槌命は天照大神に仕えて国土の平定に貢献した。中でも、鹿島・香取両神宮の神を助けて久慈郡久慈村の天津甕星神(星神香々背男)を征伐した際、石名坂にあった雷断石という巨石を蹴ったところ石は三つに割れ、一は石神村(東海村)に、一は石崎村(河原子村)に、一は石井(笠間市)に飛んだとされる(『栗田先生雑著』栗田寛著)。かつて7月10日に古徳、中里、鹿島で行われていた火のついた麦稈人形と麦稈人形をぶつけあう「大助人形」という行事は、この神話に由来するとされる(『瓜連町史』)。 『北郡里程間数之記』によれば創建は平城天皇の大同元年(806)で、次に永正15年(1518)に藤原盛頼が修造している。降って豊臣から一五〇石の社領が寄進され、徳川家康からも同額の朱印が付せられ、以後朱印状は将軍の代替わりごとに下腸されてきた。 水戸藩二代藩主徳川光圀は寛文3年(1663)、神仏分離と一村一社制を原則に領内の社寺改革に着手し、寛文8年(1668)には静神社にも、改革の『執達書』が下附された。それによると「社殿、瑞垣の破壊が進み、不浄の輩集まって神道の宗源を濁している。旧社の荒穢を改め、新宮の清美とし、璽箱を安置し、日月四陳鐘鉾楽器以下諸神宝を寄進し、修理用度の領を定め(中略)、且つ社僧を退けて仏法を停止して社頭君臣歓楽を倶にして邦内を周泰たらしめるように」と神宮領の細かな配分を指示した。 これによって弘願寺は寛文8年(1668)4月に下大賀へ、静安寺は飯田村(後に戸崎村)へ移され、この両寺の持分石高三六石余は全部静神社の修理料とされた。さらに社僧も全て神社より退け、神仏習合を止めて唯一神道に復した。 本殿建立のため、旧本殿を取壊していた寛文7年(1667)11月、傍らの一丈四尺の檜の大木の根元から『静神宮印』の銅印を発掘した。周囲の人たちは「皆々奇意の思いをなしたり」と伝えられている(『北郡里程間数の記』)。翌8年2月新たに宮居造営に着手した。遷宮は同年11月、祭主は静神社長官萩庭兵部で、近隣一六ヵ村の神官が参列して盛大に行われた。 光圀は延宝2年(1674)2月8日、藩主として静神社を参拝した。『静御社参式御用』によれば光圀は御装束所で長かみしもを召され、神前に登って祝詞を奏上。神納物(神馬代五貫文、太刀、弓矢各一本、銭二〇貫文)奉納、神馬払いなどがあり、長官斎藤式部宅へ一泊している。さらに天保4年(1833)には、九代藩主徳川斉昭が静神社を参拝した。4月2日午前8時頃、城を出て那珂川を渡り、中河内村、西木倉村、飯田村と進み、中里村で休息の後、午前10時頃到着。束帯に改めて参拝、昼食を摂り、夕暮れに城に帰ったという(『常陸日記』)。 光圀が造営した社殿は天保12年(1841)1月7日の火災によって焼失している。午後6時頃神具所より出火し、拝殿、本殿、神楽所、神門と悉く焼失したが、御神体、朱印状、宝物は長官宅へ納めて無事だった。再建は三三ヵ村の氏子から寄付を募集して天保15年(1844)3月から普請を始め、弘化2年(1845)3月に拝殿、本殿が落成して3月中に御遷宮式を行った。(那珂市域の社寺祠堂) 公式HP |
文化財 重要文化財(国指定) 銅印(附 印笥)(考古) 奈良時代の作と見られる銅製の印。印面には「静神宮印」とある。寛文7年(1667年)、徳川光圀による社殿造営の際に境内から発掘された。黒塗りの箱(印笥)に納められ、箱には徳川光圀自身の手により金文字で「宰相中将水戸源臣光圀謹記」と記されている。昭和29年3月20日指定。 茨城県指定文化財 紙本著色三十六歌仙 35枚(絵画) 江戸時代、水戸第3代藩主徳川綱條が宝永2年(1705年)に奉納したもの。天保12年(1841年)の火災で1枚は焼失。昭和37年10月24日指定。 那珂市指定文化財 陣太鼓(工芸品) 直径146cm、長さ61cmの太鼓。江戸時代の天保11年(1840年)頃、徳川斉昭により追鳥狩用の軍鼓として作られた。平成15年7月17日指定。 社頭掲示板 |
陣太鼓 瓜連町文化財保護指定 平成15年7月17日 那珂市教育委員会 由来 幕末の水戸第九代藩主、徳川斉昭(烈公)の時、天保年代の追鳥狩用の軍鼓として1840年頃製作、使用され、明治維新廃藩のとき静神社に奉納されたものといわれている。 追鳥狩(おいとりがり》とは、幕未期に行われた狩猟の形式をとった軍事訓練であり、千束原(水戸酒門町)や千波原において、天保年間だけでも五回実施された。参加著は二万三千人との記録もある大規模なものであった。 太鼓 水戸市成沢、加倉井家の屋敷にあった7体の大けやきから作られた三つの太鼓の一つである。他の二つはそれぞれ、水戸八幡宮、常磐神社に奉納され、市や県の文化財に指定されている。 寸法 直径146cm長さ61cm 「八方睨み龍」 水戸藩絵師 萩谷遷喬(那珂市後台の人)筆 保管場所 静神社神楽殿 社頭掲示板 |
静神社 名神大 静は志豆と訓べし、和名鈔、(職名部)倭文、〇祭神天手力雄命(社説〇考証に、天羽槌雄命、今云手力雄者非也と云り、されど手力雄の鋼甚古し、捨がたし)〇静村に在す、(地名記、鎮座)今那珂郡に属す、例祭月日、○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、常陸圀静神社一座、 漣胤云、主計式、常陸國倭文三十一端、」常陸國風土記、久慈郡西口里静織里、上古之時、未職織綾之機、未在知人、于時此村初織、同名之と見え、』釈日本紀、倭文神坐常陸國、依之倭文常陸國之所濟也とあれど、主計式、風土記等は、もとより倭文の事をいへるにて、此國倭文を輪する事は、諸書に見えて論をまたず、釈紀に坐常陸國といへるは、当社をさして云るか、また別に倭文社のあるをいへるか、いと覚束なし、密かに按るに、当社は静織里に坐すか故に、地名に依て静神社とは称すといへども、倭文神にあらぬは、古く手力雄明神と唱ふるにてしるし、されど國内に倭文社といふ旧号の遺らぬ限りは、明かに知がたし、猶考ふべし、 神位 三代實録、仁和元年5月22日丙午、常陸国從五位下静神授從五位上、 神社覈録 |
縣社 静神社 祭神 健葉槌命 高皇産霊尊 手力雄尊 思兼命 創立年代詳ならず、神代以来の鎮座なるが如し、常陸風土記に、静織里、上古之時、未識織綾之機、未在知人、于時此村初織、因名之」、とあり、蓋健葉槌命此地に天降坐て、織事を里民に教給へるか、若くは其神裔の此地に移住て綾を織しにもやあらむ。故に命は倭文の祖にして、元と高天原に在りて天照大御神に奉仕せられしこと、古語姶遺に見ゆ、後経津主神武甕槌神と共に葦原中國に降りて星神天香々背男を帰順せしめ給へり、平城天皇大同元年手力男神を小移村より遷して合祀す、降て近世旧青木山より高皇産霊神を、鳥羽権現塚より思兼神を合祀せり、抑健葉槌命当社主神に坐す事は社號、風土紀及日本紀算疏の「建葉槌命祠、在常陸国、出倭文地、故呼為、倭文神」とあるに因りて明かなりと雖も、中古誤て別に祠を設け、此に移し高房神社と称し、手力雄尊を以て主神とせり、然れども衆民其の古しへを忘れず、近村の婦女其機織の布を、高房神社に捧げて、紡織の業を祈る、今や復古して、建葉槌命を主神とす、神階は光孝天皇仁和元年5月丙午、從五位下より從五位上に進み、(〇三代実録)廷喜の制名神大社に列せらる、社伝に拠れば是より先、孝徳天皇の朝千石千貫の寄附ありしと云ふ、降て興國7年佐竹貞義、弘願西方静安の三寺を置いて仕へしめしが、慶長7年11月、徳川家康百五十石を奉寄し、次いて宝文8年11月藩主徳川光圀、新に社殿を営み神器神宝を寄せ、且つ僧徒を斥け社職を増し、大に面目を改めらる、時に社域の大檜樹の根より銅印を発掘す、方二寸、静神宮印と刻せり、光圀歓喜の余り文を作つて社殿に蔵む、元禄以来藩主の営繕を例とし、天保以来又年中三回朝家安全の大麻を奉るを例とする等藩主の崇敬甚だ厚かりき、為めに社領の如き、始め徳川家康の寄する所百五十石なりしが、明治維新奉還の際の如きは、増すこと三十石、即百八十石壹升壹合たりき、明治6年県社に列す。 社殿は本殿、拝鍛、其他神楽所、仮殿、社務所等を具備し、境内2475坪(官有地第一種)及近く編入せられし上地林七反廿九歩より成る、蓋、静山上にして、一に帝静山と称し白河街道の傍に屹立せる峰岳なり、檜杉陰々天を蔽い、社殿門■其間に鱗次し■だ荘厳を極む、但、惜しい哉、地僻し常に賽客の参するなく、閑寂幽静、真に神代に在る想あり、因に記す、香取鹿島の末社に高房社ありて、共に建羽槌命を祀ると云ふ、 明治神社誌料 |