久自国造船瀬宿禰(くじのみやつこ ふなせしゅくね)の奏請により、大臣伊香色雄が勅命を受けての久自の国に至り天速玉姫命を祭祀して、久自の国の総鎮守としたことが泉神社の創立である。 社記に「上古霊玉此地に天降り 霊水湧騰して泉をなす 号けて泉川云ひ霊玉を以て神体とする」とある。ご祭神はこの霊玉を神格化した天速玉姫命をお祀りしている。 境内には泉は清冽な水がこんこんと湧いており、常陸国風土記に「密筑の大井」として記録されており、茨城県指定文化財史跡(第23号 昭和44年12月1日付)である。 |
由緒 崇神天皇の御字49年、久自国造、船瀬宿禰の奉請で、大臣伊香色雄命勅命を奉じて此に鎮祭りしたと伝ふ。古くは天速玉姫命神社と云ふ。祭神天速玉姫命は天棚機姫命の女で、天太玉命の后神、天比理刀当スとも云ふ。常陸風土記に蜜筑里の大井の、又常陸二十八社号に泉川、霊玉を以て神体とすとあり。霊妙なる浄泉が湧き神域を泉ケ森、泉山流れを泉川と呼ぶ。三代実録「貞観8年5月27日庚午常陸国正六位上天之速玉神に従五位下を授く、16年12月29日癸未従五位下天之速玉神に従五位上を授く」延喜式内小社、久慈郡七座の一、享禄3年9月佐竹義篤社殿造営、社号を泉大明神と云ふ。この時青山次郎延久神馬を奉ぐ。(棟札) 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
史跡 泉が森 泉が森は、この清い泉と泉神社の神域とふくむ総称で緑樹の美しい歴史的に価値の高い森です。常陸国風土記には「密筑の大井」として人びとの憩いの場であったことが記されており、また、歌の場所としても有名であったようです。 泉神社は、天速玉姫命を祀る延喜式内社で日立地方では最も古い神社です。鎌倉・室町時代から多くの武将が祈願に訪れたといわれております。 江戸時代には、常北十景のひとつに加えられており、現在も茨城百景として名勝地にもなっております。 泉の近くにインドの河の精を神格化したという弁財天が祀られてあります。 社頭掲示板 |
泉神社拝殿造営記念碑 泉神社は、延喜式内常陸国28座中の1座、久慈郷7座中の1座で、崇神天皇の御代この地に鎮座されたと伝えられる由緒深い旧郷社である。社記には、古老曰く、社の側に神井あり、いま泉河と云ふ、上古霊玉此地に天降り、霊水湧勝して泉をなす、号けて泉川と云ひ、霊玉を以て神体とす。とあり、祭神はこの霊玉の神格化した天速玉姫命と伝えられ、延喜式神名帳には当神社を天速玉姫命神社と記している。三代実録の貞観16年の条には祭神天速玉姫神が従五位下から従五位上に神階を進められた記録がある。 さらに享保3年には佐竹義篤が社殿を造営し、社号を泉大明神と改め、続いて永禄3年には佐竹義昭の社殿屋根葺替、江戸時代には徳川光圀の修理、奉財が行われた。 上古以来代々の氏子らもまた当神社を村の鎮守と仰ぎ、一族繁栄五穀豊穣等を祈願し、崇敬奉斎のまことを尽くしてきたのであった。しかるに昭和35年当社は不慮の火災に遭い、本殿を除く拝殿等悉くを灰燼に帰してしまった。以来仮拝殿のまま修理を重ねて20余年を経たが、近年その老朽ことに激しく、氏子住民らの拝殿造営の願いは切なるものがあった。 かくして昭和55年氏子総代らが中心となり、拝殿造営等についての協議を重ね、氏子一円の協賛を得、さらに建設委員、協力委員らによる東奔西走の労及び氏子崇敬者各位の浄財と甚大なる協力並びに関係者各位の熱意とによって、昭和55年6月5日拝殿・神輿・神輿舎等の造営及び玉垣改修等の付帯工事を起工し、同58年5月3日竣工、落慶の奉祝祭を挙行したのである。 いまや千古の浄泉のほとり、神殿の荘厳は旧に倍し、神域の雅趣さらに幽遂を加えるに至った。ここに改めて永世の御加護を祈念し当神社の由来を略記し、今次事業の経緯の概要を併記して泉神社拝殿造営記念の碑文とするものである。 昭和58年6月吉日 泉神社拝殿建設委員会撰文 佐藤丈助謹書 社頭石碑 |
泉神社 ご由緒 泉神社は人皇第十代崇神天皇の御代、宇治49年(紀元前42年)にこの地方に鎮祀されたと伝えられている。延喜式内社の由緒深い旧郷社である。 久自國造船瀬宿禰(くじのみやつこ ふなせしゅくね)の奏請により、大臣伊香色雄(いかがしこおのみこと)が勅命を受けての久自の国に至り、天速玉姫命を祭祀して、久自の国に至り、天速玉姫命を祭祀して、久自の国の総鎮守としたことが泉神社の創立である。 社記に「上古霊玉此地に天降り 霊水湧騰して泉をなす 号けて泉川云ひ霊玉を以て神体とする」とある。ご祭神はこの霊玉を神格化した天速玉姫命をお祀りしている。 「東夷の荒賊を平討する」最前線基地としての地域性を反映し、古くから多くの武将が祈祷に参拝している。特に、後奈良天皇の御代、享禄三年(1530年)9月に書かれた棟礼には、佐竹義篤が泉神社を崇敬し社殿を修造したと記録されている。残念なことに、享和2年(1802年)社殿が焼失し、旧記録を始め宝物などが散逸してしまった。現在の社殿は氏子らの浄財により昭和58年(1983年)5月に再建されたものである。 例 祭 2月21日の祈年祭、5月3日の例大祭、11月23日の新嘗祭が泉神社の三大祭である。その他に1月1日の元旦祭、2月3日の追儺祭等が執り行われる。 また3月第2土曜日と日曜日には、古くから伝わる當屋祭の行事が執り行われる。 この當屋祭には、神社がまだ無かった頃、御神体を当番制で個人の家にお祭りして無病息災を祈願したことがその始まりと言われている。社殿が造営された後も、天速玉姫命の御分霊を町内持ち回りで各自の家にお祭りし、家内安全と無病息災を祈願しつつ現在も続いている。 境内社及末社 厳島神社 ご祭神 市杵島比売命(別名 弁財天) 三峯神社 ご祭神 伊弉藷神・伊弉冉神 鷺杜神社 ご祭神 天玉柱屋姫命 富士神社 ご祭神 木花開邪姫命 豊稔神社 ご祭神 月讀命・大穴牟遅命 稲荷神社 ご祭神 宇迦之御魂大神 史跡 泉が森 神社脇に清水がこんこんと湧き出る泉ある。この泉の周辺と神域の緑樹の美しい森一体を泉が森と称している。 四季それぞれに風情豊であり、参拝に訪れる皆さんの憩いの場所となっている。 さらに常陸国風土記に「密筑の大井」として記録されており、茨城県指定文化財史跡(第23号 昭和44年12月1日付)に定められた歴史的にも価値の高い森である。 常陸国風土記に記されている「密筑の大井」の箇所を口語訳すると次のようになる。 「高市(日立市の南部)と言うところがあります。ここから北東半里もないところに密筑の里があります。 この村の中には清らかな泉があって、土地の人々は大井と呼んでいます。泉の水は夏は冷たく、冬は暖かで、湧き流れて川となっています。夏の暑いときには、あちこちの村里から男女が酒や肴を持ち寄ってこの泉に集い、くつろいで飲んだり食べたりして楽しんでいます。 密筑の里の東と南は海辺に臨んでいて、あわび、うにをはじめ魚介の種類がたいへん多く見られます。西と北は山や野原に接していて、椎、櫟、榧、栗などが生え、鹿や猪が住んでおります。このように山や海の珍味がたくさんあって、全部を書き記すことができないほどです。」 ここにある<高市>は、現在の南高野町あたりを指すもので、この付近には古墳、貝塚、居住跡の集落が多く発見されている。<密筑の里>が現在の水木町であり、<大井>とあるのが、神社の脇に清水がこんこんと湧き出る泉のことである。 歌 碑 ・藤田東湖詩碑 藤田東湖がこの泉に遊んだときの詩が、徳川頼倫の書で仙台石に刻まれている。 「冽冽寒泉深樹下 炎天六月颯如秋 豈徒駆逐一時熱 洗尽乾坤萬古愁」 建立 大正4年(1915年)春 所在地 泉の脇 ・中納言兼輔歌碑 「みかの原わきて流るる泉川いつみきとてか恋しかるらん」 建立 昭和38年(1963年)2月 所在地 泉神社参道入り口 公式HP |
泉が森 こんもりと生い茂った常緑樹に囲まれた区域、泉神社境内一帯が史跡として指定されています。 泉が森については、奈良時代に編纂された、「常陸国風土記」に次のように記されています。 此より東北のかた二里に密筑(みつき)の里あり。村の中に淨泉(いずみ)あり。俗(くにひと)、大井と謂う。夏は冷かにして冬は温かなり。湧き流れて川となれり。夏の暑き時、おちこちの郷里(むらさと)より酒と肴をもちきて、男女会集(つど)いて、休(いこ)い遊び飲(さけの)み楽しめり。 密筑の里は、いまの水木の呼称で、淨泉・大井とは、神社の北側に湧出している泉のことです。周囲が50メートルほどある泉のほぼ中央部からは、今も青白い砂を吹き上げながら、絶え間なく清水が湧き出しています。水温は夏冬ともに約13度で、「風土記」に記されているとおり、「夏冷冬温」です。 泉神社は、平安時代の編修である延喜式神名帳にも記載されている由緒ある神社で、天速玉姫命(あめのはやたまひめのみこと)を祭神とし、古くは天速玉姫命神社、さらには泉大明神とも呼ばれていました。 神社には、「水木のささら」(県指定無形民族文化財)や「当屋祭(とうやさい)」が伝えられています。 ささらは、泉神社の出社に際して、露払いとして神輿を先導し、村の五穀豊穣、浜大漁及び住民の安泰を祈願する獅子舞です。 また、当屋祭は、専業の神職をもたず、村人だけで神事を行なっていた、古い時代の名残とみられる珍しい行事です。 日立市教育委員会 社頭掲示板 |
密筑の大井 お願い この湧水は、常陸風土記に「密筑の大井」として記載されており古代より地域住民の憩いの場として受け継がれてきた貴重な遺産です。 平成20年には「平成の名水百選」に選ばれております。 古来より住民に飲用されていましたが、近年環境の変化や魚類の放流、供物、お賽銭の奉納等により泉が汚染され飲料には不適とされています。水質を良くするため定期的に池の清掃をしております。 皆様には、池へ魚類の放流・供物・お賽銭の奉納は節にご遠慮下さいますようご協力お願い致します。 平成21年12月 泉神社氏子総代会 社頭掲示板 |
天速玉姫命神社 天速玉姫は阿女乃波夜多麻比売と訓べし○祭神明か也(鎮坐云、以玉為神体)○水木村に在す、今泉明神と称す、今多珂郡に属す、(地名記)例祭月日、 常陸國誌には、今不知所在と云り、 神位 三代実録、貞観8年5月27日庚午、授常陸國正六位上天之速玉神從五位下、同16年12月29日癸未、授常陸國從五位下天速玉神從五位上、 神社覈録 |
郷社 泉神社 祭神 天速玉姫命 御神体は瓊にして、社傳に云ふ、泉中より出つる所なりと、創立年代詳ならず、三代實録に清和天皇貞観8年5月庚午正六位上天之速玉神に從五位下を授け、同16年12月癸未、從五位上を加へ給へり、延喜の制式内小社に列せらる、元と天速玉姫命神社と称し奉りしが、(〇延喜式)享録3年佐竹義篤泉大明神と改称す、蓋、祠北に泉あり、甚だ著名にして、既に常陸風土記に見えたり、云く、 「蜜築里、村中浄泉俗謂大井、夏冷冬温湧流成川、夏暑之時、遠邇郷里、酒肴斎来。男女集會、休遊飲樂、」 と、清深鏡潔、人労に至り小叫すれば小湧し、叫彌大なれば湧出彌甚しと、此の泉に因り山を泉森と称し、地又旧く泉と號す、社號の泉大明神亦然らん、享禄3年佐竹義篤神殿を営繕し、永禄3年同義昭又営繕せりと、徳川光圀什器若干を納奉りしと、徐地五斗一升三合、明治維新の後社格制定に当り郷社に列せらる、社殿は本鍛、拝殿、境内1016坪(官有地第一種)閑雅幽邃、風色絶佳なり。 当社式の天速玉姫命神社、國史の天速玉姫命なりとは郡郷考及二十八杜考等の説く所なるが、近時之を疑ふ者多し、新編常陸「泉大明神ナリト云ヘリ、未ダ正シキ証ヲ得ズト雖他ニ本社アリト云コトモ聞エネパ。此社ト定ムベキニヤ」と云ひ、特選神名亦「疑シキニ似タレド、云々定メテ式内トスベキカ」と云へり、姑く附て後考に備ふ、 明治神社誌料 |