風土記時代は賀毘礼之峰(現在日立市入四間町の神峰山(御岩山、標高598m))に鎮座していた。
治承3年(1179)5月の常陸国総社造営注文(『常陸総社宮文書』)に「佐都社」、元禄の『鎭守帳』に「佐都明神」「薩都明神」とあり、社名の変遷は無かつたらしい。 |
由緒 延喜式内久慈郡二ノ宮薩都神社 茨城県常陸太田市里野宮町鎮座 所在神地常陸太田市街より東北四粁の地、里美村小里を経て福島県東館、棚倉町に通ずる所詮里川沿岸佐都郷の地の総鎮守として鎮座して居る。 御祭神・立速日男命(速経和気命) 由緒沿革・上古立速日男命松樹に降臨し給ふ。当地里家に近くして不浄多く、祟り甚だ厳格なり。里人畏敬して、延暦7年(788年)社を建てて祀る。邑人朝廷に奏請せしところ、片岡の大連を派遣、祭事を厳修「穢の多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と告せられ、神聴き給ひて延暦19年(800年)賀毘礼の峰に上り給ふ。 而して賀毘礼峯けはしく人々参拝に苦しむ、よって大同元年(806年)平良将仕へ祠を小中島に奉遷す。承和13年(846年)9月勲十等薩都神に従五位下を授く。貞観8年(866年)5月正五位下を授く、同16年拾2月従四位下を授く。 常陸太田城主藤原通延の子通成佐都宮に住し、その子通盛小野崎の地に居城、佐都荘を治め、代々祈願所と定め、一族又氏神と仰ぐ。 正平年中佐竹左近将監義信本社を修造。永正以降佐都郷三十三ケ村の総鎮守なり、大永2年(1522年)佐竹右京大夫義舜更に今の地に遷す。 毎年9月神入四間御岩の山に入る。即ち賀毘礼の峯なり。明年4月出て本宮に還る。因て時に随って例祭を修む。慶安元年将軍徳川家光圭田五十石を供す。除地十三石九斗四升三合を享く。延喜式内常陸二十八社の一、久慈郡七座の内二の宮と称え奉り官社に預る。 明治6年6月郷社に列格、同40年4月10日供進指定、昭和27年6月14日宗教法人設立。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
薩都神社 薩都里の東の賀毘礼之峯に、天神立速男命(一名速経和氣命)が祀られるが、この神は、かつて松澤の松樹の上に天降られ、そこが人居に近いため穢れがあると、嚴しく神崇を示されるので人々が苦しみ、朝廷は片岡大連を遣し祈請して、高山の上に遷座したものであるといふ。賀毘礼之峯は、當社の東北約九キロメートル、現在日立市入四間町の神峰山(御岩山)に比定する説が有力である。初め神が天降られたといふ松澤は、社傳では現社地の南約○・七キロメートルの松崎の地をそれに擬してゐる(『神社誌』。但しはつきりした遺趾・地点が指摘されてゐるわけではない。 式内社調査報告 |
薩都神社 【御祭神】 立速日男命(たちはやひ をのみこと) (速経和気命 はやふわけのみこと) 【御神徳】 里川沿岸、佐都の郷における開拓の祖神として伝えられ、殖産興業、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、厄除けなどにご利益があるといわれ、信仰されています。 【御由緒】 立速日男命は、松沢の松の木に降臨された。この神は崇りをなしたため、朝廷は、片岡の大連を派遣し、神に祈願し、「この地は、人家に近く穢れがあります。ここを避けて高い山の清浄な所にお移り下さい。」と申し上げた。神はこの願をお聞き入れになり、延暦 19年(800年)賀毘礼の峰に移られた。この社は、石の垣が作られ、その中には仕える一族が住んでいる。また、宝物・弓・鉾・釜等がすべて石となって存っている。およそこの地を飛び渡る鳥もこの地を避けて飛び、今も昔も変わらない。 (『常陸風土記』) しかし、賀毘礼の峰は険しく、参拝するのが困難なため、大同元年(806年)に現在の鎮座地の近くに遷座された。 永正年間(1500年頃)以降、里川沿岸の佐都郷旧33ケ村の総鎮守として広く信仰され、大永2年(1522年)に現在地に移された。(社伝) 延喜式内常陸国28社の1つ、久慈都7座の内二の宮と称えられ、明治6年郷社に列格された。 【祭礼】 1月1 日 元旦祭 1月9 日 祈年祭 4月 10日 春季例大祭 陰暦6 月9日 御田植祭 陰暦9 月9日 秋季例祭 12月 10日 新穀感謝祭 【文化財等】 ・ 神刀 (天国の作) 明治33年元秋田藩臣東京大学教授根本通明奉納 ・ 弓 明 治4年徳川昭武奉納 ・ 石器 延暦19年賀毘礼山遷座の降出たものと伝えられる。 ・ 奉額2 面 延宝3年、嘉永元年奉納 ・ 片木 大同元年、当社御造営の際、賀毘礼の山 にて木を切ったところ、木心に虫喰のように「鹿島御造営の」と書いてあった。おそらく鹿島の神の御子神がおられるのであろうと、左文字の片木を当社に保存、右文字を鹿島神宮に納めたと伝えられてい る。 ・ 絵馬 三十六歌仙、六歌仙の計42枚明治時代に氏子から奉納されたものと思われる。 天狗面 茨城県神社庁 |
常陸風土記(薩都神社の項) 此より以北薩都里あり。古国栖有り、名を土雲と曰ひき。爰に兎上命、兵を発して誅滅しし時に、能く殺さしめて「福なるかも」と言へし所、因りて佐都と名つく。北の山に有らゆる白亜は画に塗るに可し。 東の大山を賀毘礼之高峰と謂ふ。即ち天神有す。 名を立速日男命と称す。一名は速経和気命なり。 本天より降りて即て松沢の松樹の八俣の上に坐しき神の崇、甚厳なりき。人有りて向きて大小便を行る時は、災を示し、疾苦を致さしめしかば近側に居る人、毎に甚《、辛苦みて、状を具べて朝に請ひまつりしかば片岡大連を遺して敬ひ祭らしめて、祈み曰さく、今此処に坐せば百姓近くに家有りて朝タに穢臭し。理、坐すべからず。宜しく避り移りて高山の浄き境に鎮りたまふべしとまをしき。是に、神祷告を聴きたまひて、遂に賀毘礼之峰に登りたまふ。 其の社は石を以て垣とす。中に種属甚多なり。併品の宝、弓、鉾、釜、器の類、皆石と成りて存れり凡、諸の鳥の経過るものは、尽に急く飛び避りて、峰の上に当ること無く、古より然あり、今に為りても亦同じ。即小水有り薩都河と名つく。源は北の山より起り、南に流れて同じく、久慈河に入る。 茨城県常陸太田市里野宮町 薩都神社々務所 社頭掲示板 |
延喜式内 久慈郡二ノ宮 薩都神社 茨城県常陸太田市里野宮町鎮座 所在神地 常陸太田市街より、東北4kmの地、里美村小里を経て福島県東館、棚倉町に通ずる所謂里川沿岸佐都郷の地の総鎮守として鎮座して居る。 御祭神 立速日男命(速経和気命) 由緒沿革 上古立速日男命松沢の松樹に降臨し給ふ。当地里家に近くして不浄多く、崇り甚だ厳絡なり。里人畏敬して、延暦7年(788年)社を建てゝ祀る。邑人朝廷に奉請せしところ、片岡の大連を派遣、祭事を厳修「穢の多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と祷告せられ、神聴き給ひて延暦19年(800年)賀毘礼の峰に上り給ふ。(常陸国風土記) 而して賀毘礼峯けはしく人々参拝に苦む、よつて大同元年(806年)平良将仕へ祠を小中島に奉遷す。(社伝篠崎筆記3年に作る) 承和13年(846年)9月勲十等薩都神に従五位下を授く。(続日本紀) 貞観8年(866年)5月正五位下を授く、同16年12月従四位下を授く。(三代実録)神名帳久慈郡小薩都神社(延喜式) 常陸太田城主藤原通延の子通成佐都宮に住し、その子通盛小野崎の地に居城、佐都荘を治め、代々祈願所と定め、一族又氏神と仰ぐ、 正平年中佐竹左近将監義信本社を修造。(本社縁妃)永正以降佐都郷三十三ケ村の総鎮守なり、 大永2年(1531年)佐竹右京大夫義舜更に今の地に遷す。(社伝) 毎年9月神人四間御岩の山に入る。即ち賀毘礼の峯なり。明年4月出でて本宮に還る。因て時に随つて例祭を修む。(篠崎筆記) 慶安元年将軍徳川家光圭田五十石を供す。除地十三石九斗四升三合を享く。 延喜式内常陸二十八社の一、久慈郡七座の内二の宮と称え奉り官社に預る。明治6年6月郷社に列格、明治40年4月10日供進指定 昭和27年6月16日宗教法人設立。 由緒書 |
薩都神社 薩都は假字也、和名鈔、(郷名部)薩都、(印本薩の字脱す、今一本に拠る、)○祭神立速男命(風土記)○薩都郷佐都宮村に在す、(地名記)例祭月日、○常陸國風土記云、薩都里、古有國栖、名曰土雲、爰兎上命発兵誅滅、時能令殺、福哉所言、因名佐都、北山所有白土可塗盤之、東大山謂賀毘礼之高峯、即有天神、名称立速日男命、一名速継和気命、本自天降、即坐松澤松樹八俣之上、神崇甚嚴、有人向行大小便之時、令示災致疾苦者、近側居人、毎甚辛苦、具状請朝、遣片岡大連敬祭、祈曰、今所坐此処、百姓近家、朝夕穢臭、理不令坐、宜避移可鎮高山之浄境、於是神聴祷告、遂登賀毘礼之峯、其社以石爲垣、中種属甚多、并品寳弓鉾釜器之類、皆成石存之、凡諸島経過者、悉急飛避、無当峯上、自古然、為今亦同之、即有小水、名薩都河、源起北山、流南同入澁河、 神位 続日本後紀、承和13年9月丙午、奉授常陸國勲十等薩都神從五位下、三代實録、貞観8年5月27日庚午、授常陸國從五位上勲七等薩都神正五位上、同16年12月29日癸未、 授常陸國正五位下勲十等薩都神從四位下、 神社覈録 |
郷社 薩都神社 祭神 立速男命 神体は神鏡に坐す由、常陸風土記に云く。 「薩都里、古有国栖名曰土雲、爰兎上命発兵誅滅、時能令殺福哉所言、因名佐都、東大山、謂賀毘礼之高峰、即有天神、名称立速日男命、一名速経和気命、本自天隆、即坐、松澤松樹八俣之上、神崇甚厳、有人向行大小便乏時、令示実致疾苦、者、近側居人、毎甚辛苦、其状請朝、遣片岡大連敬祭、祈曰、今所坐此処百姓近家、朝夕穢臭、理不合坐、宜避移可鎮高山之浄境、於是神聴祷告、遂登賀毘礼之峰、其社以右為垣、中種属甚多、并品宝弓鉾釜器之類、皆成石存之、凡諸鳥経過者、尽急飛避、無当峰上、自古然為、今亦同之、云々」 と見ゆ、続日本後紀に仁明天皇承和13年9月丙午、勲十等薩都神に従五位下を授け給ひ、三代實録に清和天皇貞観8年5月庚午従五月位上より正五位上に進め奉り、岡16年12月癸未從四位下に進め給ふ、延喜の制式内小社に列せられ、当国二十八社の一に坐ませしが、永正以降三十三ケ村の氏神たり、是より先正平年中、佐竹義信当社修造の事ありき、祠は元と賀毘礼山上に在りしが、平城天皇大同元年小中島に遷し、大永2年更に佐竹義舜今の地に奉遷せり、後、慶安元年徳川家光圭田五十石を寄せ、徐地十三石九斗四升三合あり、明治維新の後郷社に列す、 社殿は本慶、拝殿、其他神楽殿等あり、境内1254坪(官有地第一種)及近時編入せられし上地林一反一畝二十一歩より成る、老樹鬱蒼とし、極めて幽邃の境たり、 明治神社誌料 |