「長幡」とは絹織物の一種・あしぎぬを指す言葉で、「長幡部」とはそれを織る技術者集団を表す。 常陸国風土記に「長幡部之社」と記されている。 風土記に、美麻貴天皇(崇神天皇)の御代長幡部の遠祖多弖命が三野(美濃)からこの地に遷つたという。 この地方の長幡部の奉齋する神社であつたと思われる。 本殿の東約50mの所に、神座(カミクラ)と称される石がある(或は古墳の石棺等の蓋石かという)。 現社地の北西約0.7km程距つた所に、元宮(モトミヤ)と呼ばれる地があり、当社の旧社地と伝えられ、祭礼の時、神輿をここに安置するという。 |
由緒 御祭神 綺日女命。多弖命 新編常陸国誌に「久慈郡太田郷幡村ニアリ二十八社考・郡郷考・蓋長幡部遠祖綺日女命・多弖命ヲ祭ル」とあり、皇孫瓊瓊杵尊天降りの時、御服を織られるため、機具を携えて御供した神に綺日女命あり、本は筑紫の日向の二神の峰より、三野国の引津根の丘に至られた。後、崇神朝に及び其の子孫多弖命、三野より常陸に移り、此地に機殿を建て長幡を織られた。長幡とはMEの名にて之れを織作るものを長幡部と云い、以前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、後に及ぶまで神調として奉った。即ち御祭神の子孫がその遠祖を祭ったのが当社である。今関東一円に広がる名声高き機業は実にわが御祭神の流れを伝えるものと云えます。 神階は仁寿元年正六位上、明応10年正三位を進めらる。延喜式内久慈郡七座の一。常陸二十八社の一で、式内小社である。神社の北五町ばかりの処に旧宮跡ありて、神輿出社の際は必ず安置す。 中世以降小幡足明神と云い、後駒形明神と尊称、康平年間、源頼義奥州征討の際、当社に戎旗一旗を奉献して戦勝を祈念し、凱旋に及び、社地に鹿島、三島、明神、若宮八幡の四所を祭り、四所明神とした。後四所明神盛大となり、遂に社号を失い鹿島明神とのみ称えて居ったが、延享年間に至り故老の口碑に依って旧社号に復活したと云う。正月七日間の祭礼、4月9日水木浜へ神幸あり、水戸藩代々の崇敬厚く、その祠宇の造営には常にその材を進め、殊に斎昭公深く敬し、弓矢刀剣の奉納あり、除税地四石八斗八合、明治6年郷社に列格、同40年4月10日(第178号)供進指定。昭和27年6月14日宗教法人設立(常陸風土記、延喜式、常陸二十八社考、新編常陸国誌略録誌) (注)文中のMEは、「糸」偏に「施」の字の左偏「方」を除いて合わせる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
長幡部神社 延喜式内 長幡部神社御由緒 御祭神 綺日女命、多弖命 御由緒 今より1200年以前に上られた常陸風土記に次の如く記されて居る。 『郡の東七里、太田郷に長幡部の社あり。古老の曰へらく、珠売美萬命、天より降りましし時、御服を織らむ為に、従ひて降りし神の御名は、綺日女命、本は筑紫國の日向の二神の峰より、三野國の引津根の丘に至りき、後、美麻貴天皇(崇神天皇)の世に及び、長幡部の遠祖多弖命、三野より避りて、久慈に遷り、機殿を造り立てて、初めて織りき、其の織れる服、自ら衣裳と成り、更に裁ち縫ふこと無し。之を内幡と謂ふ、或は曰へらく、を織る時に当りて、輙く人の見るが為に、故れ、屋の扉を閉ぢ、内を闇くして、織る、因りて烏織と名づく。強兵、利剱も、裁ち断ることを得ず。今、年毎に、別に神調として獻納れり』 と、誠に御由緒深き古社である。 即ち長幡とは、絹の名にして、これを織り作るものを長幡部という。 御祭神の子孫が、その遠祖を祀ったのが当社である。 延喜の制式内に列し、常陸二十八社の一なり。神階は仁寿3年正六位上、明応10年正三位を進めらる。 中世以降、小幡足明神 又駒形明神と称す。康平中源頼義北征に際し戎旗一旗を献じ、以て戦勝を祈る。凱旋に及び、社地に鹿島、三島、神明、若宮八幡の四所を祭り、四所明神とした。後、四所明神盛大になり、遂に社号を失い、鹿島明神とのみ称え、延享年間に至り、故老の口碑に依って旧社号に、復活したと云う。水戸藩 特に木材を進め、その用に供す。殊に斉昭公深く敬し、弓矢刀剣の奉納あり。神社の北五町許りの処に旧宮跡ありて、神輿出社の際は必ず安置す。 明治5年、郷社に列格。 斯くて、当神社は、今関東に広がる名声高き結城紬を始め織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる所以でもある。 祭祀 元旦祭 1月1日、祈年祭 2月20日、例祭 4月9日、秋祭 旧9月29日、新嘗祭 11月30日 社頭掲示板 |
長幡部神社 長幡部は奈賀波太倍と訓べし〇祭神長幡部連祖○太田郷幡村に在す、(地名記)○古事記、(開花段)日子坐王之子、神大根王者、長幡部連之祖、○常陸國風土記云、郡東七里太田郷、長幡部之社、古老曰、珠売美方命、自天降時、爲織御服、從而降之神名綺日女命、本自筑紫國日向二神之峯、至三野國引津根之丘、後及美麻貴天皇之世、長幡部遠祖多氏命、避自三野、遷于久慈、造立機殿、初織之、共所織服、自成衣裳、更無裁縫、謂之内幡、或曰、当織絹時、諏爲人見、閉屋扉、闇内而織、同名烏織、兵白刃、不得裁断、今毎年、別為神調、献納之、〇式廿四、(主計上)常陸国長幡部絹七匹、 常陸志には、不知其所在」鎮坐云幡村、旧曰長幡村、祭神多弖命、是為長幡部始祖、 類社 武蔵國賀美那長幡部神社 氏人 類聚國史、弘仁8年閏4月戊子、常陸國人長幡部福良女授少初位上 神社覈録 |
郷社 長幡部神社 祭神 多弖命 祭神は長幡部の始祖にして、古事記、(開化段)に、日子坐王之子、神大根王は、長幡部連の祖とあり、神体は御鏡に坐ます、風土記に云く 「大田郷長幡部之社、古老曰、珠売美萬命自天降時、為織御服、従而降之神名綺日女命、本自筑紫国日向二神之峰、至三野国引津根之丘、後及美麻貴天皇之世、長幡部連祖多弖命避自三野遷于久慈。造立機殿初織之、其所織服、自成衣裳、更無裁縫。謂之内幡、或曰、当織絹時、練為人見、故閉屋扉、閤内而織、因名島織、強兵利剣不得裁断、今毎年、別為神調、而献納之」 と、嵯峨天皇弘仁8年閏4月、多氏命の神裔長幡部福良女(蓋本郡の人)に少初位上を授けらる、(〇類聚国史)当社は醍醐天皇の延喜の制式内小社に列せられ、以来小幡足明神と云ひ、後改めて駒形明神と称す、康平年中源頼朝北征の時、当社に捷を祈る、還るに当り鹿島三島伊勢八幡の四所を更に此に勧請し四所明神と称ぜりと、是より四所明神盛になり、当社衰へ遂に社号を失ひしを延享中口碑に基き旧称長幡部神社と改称す、此地水戸藩の領となるや水戸藩の崇敬社となり。造営の如きは用材皆藩の寄する所たり。殊に烈公厚く崇敬し神器を納む、社領は四石八斗八含、明治維新の後社格制定に当り郷社に烈せらる、 社殿は本殿、拝殿、幣殿、境内は475坪《官有地第一種》高蝦にして眺望絶佳なり 明治神社誌料 |