開けた里中の社。 持統天皇5年夏創祀という。 持統天皇5年(691年)の夏、霞ヶ浦沖に光が出るので漁師が網を下ろすと、風雨とともに異人が現れた。異人は「海の神小童の神」と名乗り、霞ヶ浦の大毒魚の悪光が不漁と国家の愁をもたらすと言い残し、波底に沈んだ。すると雲が晴れて波が静まった。漁師は「海の神小童の神」を祀る「海神社」を村内の浄地に建立したが、後に社名が転訛して「網神社」になった。 天平勝宝2年(750)に、神託によつて豊城入彦命を合祀。 |
阿彌神社 祭神 豊城入彦命・経津主命 由緒 崇神天皇十八年、豊城入彦命、東国に荏み曽て此地に到り昔建御雷経津主二大武神平国の功を憶い、其の上天地なるを偲びて慨然としていわく「皇祖の天下を経営せらるるや、阿彌普都実に能く天業を輔弼せり両神功成りて天に還りしは、蓋し是の地なるか」とこれより阿彌郷と名づけ、この地に命を祭る。明治6年8月郷社に列す。 明治39年12月当村内の熊野神社・香取神社・天照大神宮・皇産霊神社を、明治41年4月 鹿島神社・愛宕神社・八坂神社・八幡神社・稲荷神社を 同年5月十握神社を合併す 旧阿見村の鎮守の社として崇拝され 岡崎、中郷、西郷、立之郷の四地区より総代が選出され八名の氏子代表が阿彌神社の祭祀行事等を司り慣習の伝承に務め先代より今日迄引継がれている。 境内社 青麻神社、道祖神社、八幡神社 稲荷神社、日枝神社、諏訪神社 社頭掲示板 |
旧霞ケ浦神社 参道の西側にあるトタン葺神明造の社殿は、旧霞ヶ浦海軍航空隊の敷地内にあった旧霞ヶ浦神社である。 かつては海軍航空隊創設以来の航空殉職者を英霊とし、霊名録を御神体として祀っていた。終戦までに霊名鎌は16巻、合祀された英霊は5537柱であった。 創祀は大正14年(1925年)、山本五十六海軍航空隊副長兼教頭(当時)の発案によるもの。隊員の協賛・寄付、泰仕を得て社殿等を造立、翌年4月に竣工。占領軍により強制廃絶となったが、社殿は阿彌神社境内に移され、霊名録は民家に秘匿された。鳥居や玉垣は廃棄、拝殿は未竣工だった。ちなみに土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊武器学校)にも同旨の土浦航空隊神社があり、社殿と木鳥居が有志により民家やつくば市小白硲の鹿島神社に移築され現存している。 隊員の尽力により建立された霞ヶ浦神社ではあったが、主権回復までに社殿の損傷が著しくなったという経緯もあり、維持管理等の問題が重視され、再建されることはなかった。昭和30年12月、旧海軍関係者は旧海軍航空殉難者慰霊塔を建立し、その基部に霊名録を収めた。しかしその後、慰霊塔も廃絶となり、昭和47年5月(1972年)、霊名録は霞ヶ浦沿岸から離れ、東郷神社境内霊社海の宮に移された。 このため、現在の阿彌神社境内にある旧霞ヶ浦神社は、社殿が保存されてはいるが廃絶している。由緒書きにも境内社として記載はない。 社頭掲示板 |
郷社阿彌神社 祭神 豊城入彦命 相殿 応神天皇 天鈿女命 熊野神魯岐櫛御氣命 倉稲魂命 速玉之男命 経津主命 高皇産霊命 菊理姫命 迦具土命 伊邪那美命 事解男命 天照皇大神 武甕槌命 創建は社伝に拠るに、初め崇神天皇18年、皇子豊域入彦命東国に覆み、曾て是地に至り、建御雷経津主両神の功を優ひ、慨然として曰く、皇祖の天下を経営せらるるや阿彌晋都、實に能く天業を輔弼せり、爾神功成るに逮て天に還りしと、蓋是地に於てする乎と、是より郷を阿彌と称すと、又云ふ、元明天皇和銅元年祠を是地に建て皇子を祀し阿彌神社と称すと、命は大綱公の始祖なれば、蓋本社は其の後裔の祀る所なるか、廷喜の制式内小社に列せられ、今現に郷社たり、然るに學者往々竹来の二宮を以て式の阿彌とす、近著の大日本地名辞書も亦当社を以て式の阿彌とし、竹来二宮を以て阿彌とするの非を辮せり、但、是より先郡郷考式社考亦当社を以て式の阿彌とす、明治7年郷社に列格す、 社殿は本殿、幣殿、拝殿、境内は1729坪(官有地第一種)あり、相殿八神は元と村内各所に散在せられし熊野神社、香取神社、天照大神、皇産霊神社の四社に鎮祭せられ給ひしが、明治40年当社に合祀せり、又明治41年3月同村大字大室無格社鹿島神社、同愛宕神社、同八坂神社、同八幡神社、熊野神社及同村大字鳥山無格社鹿島神社、同鈴神社、同八幡神社、同稻荷神社及同年4月同村大字廻戸無格社十握神社を本社に合併せり 明治神社誌料 |