往古、普都大神が高天の原より降られて、この地上を平定し、やがて高天の原に復命のため、身につけていた器杖・甲・文・楯・劔・玉珪などをみなぬぎて高来の里に置き、白雲に乗つてお上りになつた。 高来の里は現在阿見町の竹来(タカク)という地名のところといわれ、こゝには楯脱山と呼ぶ丘がある。 古く信太郡の一宮とされ、境内はうっそうとした木立に囲まれ、県の自然環境保全地域に指定されている。 |
楯縫神社 信太荘の一の宮 閑静な杉林の中にたたずむ楯縫神社は、信太荘一の宮(元県社)として知られています。創建については紀元18年、推古16年(608年)、大同2年(807年)の3説があります。 現在の社殿は、天正17年(1589年)に木原城主近藤利勝が寄進したもので、嘉永7年(1854年)に修理されました。 境内には、貞享3年(1686年)12月銘の灯篭2基、天文年間(16世紀中頃)に奉納されたといわれる木造の狛犬などが残されています。 「楯縫神社」社名の由来 『常陸風土記』では「経津主命が国土鎮定の大任を果たされ、高天原に復命のため、身につけられていた兜や剣、首飾り楯などの武装を脱ぎ、やがて天より迎えの白雲にのっていかれた」とあり、社伝によればこの地を「楯脱ぎ」と称し、のちに「楯縫」に改められたといわれています。 自治集団「祈祷衆」 南北朝時代には、この楯縫神社を中心に信太荘内にある寺社の僧たちが「祈祷衆」という自治集団をつくり、ときには領主に対して集団で訴訟を行うというような活発な動きをしたこともありました。 (美浦村教育委員会発行『美浦の文化財』・美浦村教育委員会より) 「楯縫神社」と木原祇園祭 「木原祇園祭」は、祭の起源、由来等については分からないことが多いのですが、古くから行われてきた伝統あるまつりで、江戸時代には既に行われていたようです。 ところで、祇園祭とは京都の八坂神社の祭りのことで、平安時代に疫病退散の願いを込めて始まったのが起源とされています。毎年夏(7月)に行われているのは、この時期が最も疫病が発生しやすいからでもあります。ちなみに八坂神社の祭神は、病気や農作物の害を防ぐとされている「牛頭山王」と呼ばれる神様です。さて、木原の祇園祭ですが、現在は楯縫神社の祭として、やはり7月に行われています。しかし、楯縫神社の祭神は「牛頭山王」ではなく、千葉県佐原市の香取神社と同じ「経津主命」と呼ばれる武道の神様です。また木原はもとより美浦村内には八坂神社はなく、なぜ「祇園祭」と称しているのか分かりません。 ここからは推測になりますが、祇園祭は疫病を祓い、清めるという意味を込めて水辺に接した場所で行われることが多く、そうした点では霞ヶ浦に面した木原集落で祇園祭が行われていることは理解できます。また、茨城県県南地域では7月に行われる祭をすべて祇園祭と称する傾向があり、これを「もらい祇園」と呼んでいるそうです。こうした点から木原の祇園祭は、八坂神社の祇園祭を意識しつつ、祇園信仰の要素(疫病退散、農作物の病害虫駆除など)を取り入れた地域の祭と言えるのではないでしょうか。 (美浦村教育委員会生涯学習課文化財係学芸員川村勝記) |
楯縫神社 延喜式内小社 一の宮 楯縫神社(元県社) 祭神 普津主命 盤筒男、盤筒女二神の御子で武甕槌命と共に高天原より降って此の国を平定し給う時に自ら斎主神となって神祇を祀り給うた。その為後世戦陣の門出には命を祀るのが例となった。 昔古大神葦原を平定し復命の時此地に暫時留賜い楯矛を脱ぎて御魂留賜へし地により此所を楯脱と称し後楯縫□□と伝えられる。 亦此地を永正3年までは神越村と称していたが・・・・・・城主近藤式部大輔藤原利勝の原と境内神代大杉の・・・霊木の□□が生地なる故に大木の木の原とも合して木原と村名を改めた。 昔古には鹿島神事と申して氏子中□は□を卜い定めて惣氏子・・・時を定め社前に集合いたし御当大神、普津主大神の御神霊を供奉し霞浦を渡御し竹来二の宮阿彌神社□□奉る古式□□された。 往昔は神領五十町歩余りありしが興国年中高師冬□軍をもって信太の荘を責取之が為土人屋代信経と云う者を響導として信太の□を侵し此時神領不残掠奪され以来無禄となる。 勧請年歴 人皇34代推古天皇の16年名遣 其後 大同2年再建 文明8年再建 天正17年再建 嘉永7年再建 社頭掲示板 |
楯縫神社 美浦村木原楯縫神社所蔵 管理者 美浦村木原2653 鈴本嘉彦 村指定文化財 狛犬 一対 狛犬(高麗犬)は唐獅子ともよばれ霊力をそなえた異国の動物で、寺社の守護神として、供えられている。 一対のうち一方は口を開き「阿」、他方は口を閉じて「吽」の形をとる。阿は字音の最初、吽は最後の字で、この二字をもって諸法の原点と帰着点をあらわすものとしている。 なお狛犬は江戸時代以後屋外に置かれるようになったが、古くは殿舎内に置かれることが多かった。 高 54cm 重13.9Kg 高 50cm 重11.2Kg 当楯縫神社(祭神フツヌシノミコト)は推古天皇16年(608)創建でフツヌシノミコトが兜楯を脱いでこの地に残された故事にちなんで、循脱 楯縫の称がでた。古来信太郡一の宮(元県社)である。境内北の方には杉の巨木の根幹(径6m余)があり、「木原」の地名の起りといわれている。 美浦村教育委員会 (1985年2月) 社頭掲示板 |
楯縫神杜 美浦村大字木原 楯縫神社の祭神は普都主命。元県社て信太荘の一の宮としで崇敬されてきました。「常陸風土記』には、「普都大神が国土鎮定の大任を果たされ、高天原に復命のため、身につけられていた器・杖・甲・才・楯。剣、玉珪などをぬぎ、やがて天より迎えの白雲にのっていかれた」という伝えがあることから、社伝にはこの地を楯脱と称しのち楯縫に改められたとあります。 創建については、紀元18年、推古天皇16(608)年、大同2(807)年の三説があります。文明8(1476)年の再建は江戸崎城主土岐原景成が外護し(棟札)、天正17(1589)年の再建は木原城主近藤利勝の寄進によるものです。境内北の方に杉の巨木の根幹があり、木原の地名の起こりといわれています。 社頭掲示板 |
楯縫神社 楯縫は多天奴比と訓べし○祭神彦狭知命、(地名記)○信太郷木原村に在す、(式社考、地名記)例祭月日、 ○鎮座記云、相伝信田郡第一宮也、社側有大杉樹、周員四丈五尺余、爲神木、見者皆以為奇 常陸誌には、今不知其所在、又未考其爲何神と云り、 類社 丹波國氷上郡、但馬國養父郡、同國氣多郡楯縫神社、各一座 神社覈録 |
縣社 楯縫神社 祭神 普都主命 配祀 大己貴命(二座) 須佐之男命 宇迦魂命(二座) 皇産霊尊 市杵島姫命 熊野加夫呂岐命 創立年代詳ならず、社伝に拠れば推古天皇15年の創建とす、此の地神代の旧跡にして、始め大神國平の功成り暫く此地に留り、後竹来の里に徒り登天し給ひしと、楯縫の号は蓋し大神登天に際し身に随ふ所の甲楯を脱かれし故に、楯脱と称せしを後世脱を縫に誤りしものなり、楯脱山の脱以て証すべしと云ふ、此地上古茫々たる廣原にして、杉檜処々に生ず、因りて木原と號く、或時一人の翁忽然として出現し、里人に告げて曰く汝等家屋甚だ丙なり、此の宮を観て造るべしと、一尺度を授け杉の小陰に入る、郷人再拝教に從て神前に群参し、氏里に家居を始めたりと、延喜の制式内小社に列せられ、古来旧信太郡一の宮と称し奉り、この宮阿彌神社と郡を二分し、其一半三十三ケ村の氏神たり、明治6年縣社に列す。 明治41年4月同村大宇須賀津無絡社厳島神社を本社に合併せり、社殿は本殿、拝殿及幣殿等にして、境内は3981坪(官有地第一種)たり、松杉陰々として四境を掩ふ、内に一巨杉あり、大神の霊を留め給ひし霊木なりと、土硲之を神代杉と称す、周囲実に五丈八尺高さ百二十尺なりしと、惜しい哉、明治元年5月命尽きて自ら倒る、今尚其根幹を存す。 世に社号楯縫の文字に泥み、当社祭神を彦狭知命とす、特選神名牒祭神経津主之神とし、之を弁じて云く、 「今按、楯縫ノ社号ニヨルトキハ、彦狭知命ヲ祭レルガ如クナレドモ、出雲風士記意宇郡楯縫郷ノ条ニ、布都怒志命之天石楯縫直給之、故云楯縫トアルニ、社説ヲ合セテ、経津主命ナルコトシルヘシ、程遠カラヌ竹来村ニ阿彌神社アリテ、健御雪命ヲ祭リ、一郡九十五村ノ半ヲ分テ二社ニ属スルモ由アレバ、今社伝ニ従へリ、 明治神社誌料 |