創祀年代は不詳だが、一説に「人皇53代淳和天皇天長年中」と言われている。 社伝では養老年間(717 - 724年)の創建としている。 江戸時代までは、大国玉命を祀る男体(東の宮)と活玉依媛命を祀る女体(西の宮)との二本殿を有したが、明治以降は一殿となったという。 |
由緒 当神社の創建は詳らかでないが、仁明帝承和4年3月(西暦837年)には、霊験甚だ大であったために官社に預り、同12年には従五位下を授けられたことが続日本後記に記されている。更に清和帝貞観3年9月(西暦861年)には従五位上に昇叙されたことが三代実録に記されている。また、延喜式神名帳(西暦927年)に当社の名が記されている。 慶長年間に徳川幕府から御朱印地二十石を賜る。更に元禄12年には水戸光圀公より、四神乃旗、日月乃幢が奉納された。 明治6年4月郷社に列格された。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大国玉神社 (常陸二十八社の一社、延喜式内社、旧郷社) 御祭神 大國主命 武甕槌命 別雷命 由緒 当神社の創建は詳らかでないが、仁明帝承和4年3月(西暦837年)には霊験甚だ大であったために官社に預り、同12年には従五位下を授けられたことが続日本後記に記されている。更に清和帝貞観3年9月(西暦861年)には従五位上に昇叙されたことが三代実録に記されている。また、延喜式神名帳(西暦927年)に当社の名が記されている。 慶長年間に徳川幕府から御朱印地二十石を賜る。更に元禄12年には水戸光圀公より、四神乃旗、日月乃幢が奉納された。 明治6年四月郷社に列格された。 鍬の祭(鍬打祭) 村指定無形民俗文化財 昭和54年11月5日指定 毎年正月3日に当神社で行われている行事で田遊びの神事ともいわれている。このお祭りに使用する翁の古面や牛面は中世の頃の作といわれている。 年頭に氏子崇敬者の家内安全と五穀豊穣を祈願する予祝行事である。 社殿の前庭に榊の小枝を敷き田所となし、古式にしたがって「春鍬打ち」「畦づくり」「水切り流し」「牛口伝」「しばふみ」「田ならし」「種まき」「早苗とり」「お田植え」から「お中食」と農作業の仕ぐさをしながら唱え言をして豊作を祈願する古くから本社に伝わるお祭りである。 さやど廻り祭 村指定無形民俗文化財 昭和54年11月5日指定 毎年正月4日早朝に行われる神事である。 詳しい名称は「大國玉神社末社七十五社御宮渡巡行」と呼ばれるものである。 大国玉地内に祀られて当社の末社を氏子崇敬者の有志が大榊と大太鼓を先頭にして走りながら巡行し、家内安全と五穀豊穣を祈願するお祭りである。 帰社後、甘酒を頂き、「神宝日出五穀豊熟福田之祓」の御神符を受ける。 この行事に参加すると年間無病息災であるといわれている。 大和村教育委員会 社頭掲示板 |
大国玉神社 大国玉神社は、御創立極めて古く延喜式内社として平安の昔から朝廷の御崇敬、一般国民、の信仰甚だ厚いものがあったことは広く世に知られております。今日でも郷土の永永安寧と限りない発展をお祈り甲し上げ御祭神の御偉徳を敬仰いたしております。隔世天地の罹災多く改築を重ねてまいりました拝殿が。幾星霜を経て老朽甚だしく永命を全うするに及びました。氏子一同協議を重ね、造営の時宜と定め、敬神の念篤き270余名の奉賛を戴き、平成4年2月礎固め、太柱敷き立て、同10月絢爛高雅な幣殿・拝殿を竣成し、併せて御本殿の大屋根を銅板葺にいたしました。 茲に租先の思に感謝し、敬神の真意と奉賛者芳名を後世に残すべく碑に列記します。 平戒4年10月吉日 大国玉神社拝殿改築委員会 大国玉神社官司太田良正 社頭石碑 |
大国玉神社 【御祭神】 大國主命 【御神徳】 御祭神大國主命は、御別名甚だ多く大 己貴神、大物主神、葦原醜男神、八千矛神、大國玉神、顕國魂神等の名をお持ちであるが、これは大神が種種のご事業を起こされたご神徳から名付けられた御名 である。 故に五穀豊穣、厄除開運、商売繁盛、縁結び、家内安全、学業成就などの福徳がある。 【御由緒】 当社は、社伝によれば養老年間の 創立とされている。続日本後記に承和4年3月霊感甚だ大であるため、官社に預かり、同12年に従五位をさずけられ、貞観3年に従五位上が贈られた、延喜式 内社である。 徳川累代将軍より御朱印地二十石が下賜された。 元禄12年11月に水戸黄門より四神の幡、日月の幡鉾が奉納された。 茨城県神社庁 |
大國玉神社 大國玉は於保久爾多萬と訓べし○祭神大己貴命か○大國玉村に在す、(地名記)例祭月日、 類社 伊勢國多氣郡大國玉神社の條見合すべし 神位 官社 続日本後紀、承和4年3月戊子、常陸國真壁郡大國玉神預官社、以此之中特有霊験也、同12年7月辛未、授常陸國無位大國玉神從五位下、 神社覈録 |
郷社 大國玉神社 祭神 大國主命 相殿 武甕槌命 別雷命 創立年代詳ならず、続日本後紀に仁明天皇承和4年3月戊子、官社に預り給ふ、蓋此神特に霊験有るを以てなりと、次いで同12年7月辛未、従五位下を奉授せられたる由見えたり、三代實録に清和天皇貞観3年9月從五位上に進み給ふ、延喜の制式内小社に列せられ、古来上下の崇敬厚く社領の如き、既に後宇多天皇弘安2年神領凡三十町九段を有し鉛ひしこと祝所文書に見え、近世徳川墓府亦二十三石の祀田を寄進す、当社一に鹿島明神と称し、祭る所二座、東を男体宮といひ、西を女体宮又物忌宮と云ふ、御神体は一尺二寸の霊石なりと、(社記)明治6年郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、幣殿、境内は791坪(官有地第一種)あり、宝物は宝珠七個、小槌、源光圀奉納の旗四流、翁面等其主なるものなり。 明治神社誌料 |