疋野神社
ひきのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】疋野神社 肥後国 玉名郡鎮座

   【現社名】疋野神社
   【住所】熊本県玉名市立願寺460
       北緯32度56分18秒、東経130度33分8秒
   【祭神】波比岐神 (配祀)大年神
   【例祭】10月14-16日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】承和7年(840)8月27日預官社
       延宝6年(1678)再興
       元禄元年12月8日国主綱利参拝
       明治5年県社

   【関係氏族】日置氏
   【鎮座地】移転の記録は無い
        延宝6年(1678)再興
        旧社地の痕跡が残っていたものと思われる

   【祭祀対象】本来は氏祖を祀る
   【祭祀】
   【公式HP】 疋野神社
   【社殿】神殿
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】疋野長者御神陵・菅原神社・池田神社・拝高天神社・菅原神社・温泉稲荷神社

日置(ヘキ)氏の氏神を祀つたものと考えられ、その盛衰は日置氏とともにあつた。
日置氏が強大な力を有していた理由には、肥沃な土地と鉄生産というしつかりした経済基盤があつたことであろう。しかし、平安時代の末には急速に力を失つた。
祭神波比伎は灰吹きの意で、製鉄の重要なたたら(ふいご)にちなんだ名称ではないかとされる。
中世から近世にかけて日置氏の没落後には衰退し、社殿の跡さえ不明になった。延宝6年(1678)に再興された。


由緒

疋野神社は2000の歴史を持つ由緒深い神社です。
県内最古の国史現在社である。
六国史「続日本後記」に官社(官弊社)列格の年月日が銘記されている由緒格式高い神社である。(承和7年7月27日官社列格)
貴重な式内社である
平安時代の「延喜式」神明帳記載の神社を式内社という。日本で当時、特に著名であった神社を記載する。熊本県では現存三社のみ。玉名郡市では当社のみ。
(現在熊本県神社総数約3200社、玉名郡市約430社)
玉名地方最高の旧県社である。
明治初年、玉名郡市唯一最高の県社となる。
疋野長者伝説ゆかりの神社である。
境内地に長者の御神陵があり、古くより、特に縁結び、商売繁盛、開運招福を願う参拝者が多い。
すばらしい御社殿と県下にほこる大鳥居
現在の御社殿は、肥後藩主細川綱利公の御造営で、すでに300年を経る。参道正面には天をつくような堂々たる純白の大鳥居がそびえたつ。春の桜、秋の紅葉も見事である

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




疋野神社

疋野神社ご案内
● 御祭神は神代の尊い大神様です
主神 波比岐神(「古事記」「延喜式」に見え朝廷の崇敬厚い神様です)
相殿 大年神(素盞嗚尊の御子神様で波比岐神の御父神様です)
● ご社殿は荘厳で堂々たる流れ造りです
現在の社殿は、約300年前の延宝6年 藩主細川綱利公のご造営で、総けやきの素木つくりであり神殿の飛龍の彫刻も見事なものです。
● 式内社であり由緒深い神社です
平安時代の国の法律書「延喜式」神明帳 記載のいわゆる式内社であり、県下でも貴重な存在の神社です(熊本県三社、玉名地方では当社のみ)また、「続日本後紀」記載のいわゆる国史現存社であり、官社列格の年月日が明白にされています。(西暦840年7月27日)
● 旧県社であり格式高い神社です
明治初年には県下で真っ先に県社に列格されました(玉名地方では唯一の県社で最高の社格です)
● 疋野長者ゆかりの神社です
疋野長者伝説の長者御神陵が社殿の裏にあります。長者の如き幸と福を祈って数多くのご参拝があります。また近くの玉名温泉は、長者発見の出湯と伝えられ、すぐれた泉質と歴史の古さは全国でも有数のものです。
● すばらしい鳥居と境内地です
二の鳥居は肥後藩家老長岡筑後守寄進の三百年を経た石鳥居であり、参道正面の純白の一の大鳥居は国内外数千人の人々の奉納で、県下にほこる大鳥居です。また当神社は玉名地方を見はらす高台にあり、春の桜、秋の紅葉も参拝の人々を楽しませてくれます

社頭掲示板



疋野神社

◎ 疋野神社は2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です ◎
・疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられ、2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です。
・六国史の一つ「続日本後紀」に仁明天皇承和七年七月庚子(西暦840年)肥後国玉名郡疋野神社を似て官社に預からしむ云々・・・
と官社列格の年月が銘記されている由緒深い神社(国史現在社という)でありまた平安時代の国の法律書「延喜式」の神名帳にも記載されているいわゆる式内社であり、県下でも貴重な存在です。
「延喜式」は延長5年(西暦927年)制定され、日本全国で当時すでに存在し、また著名であった神社が記載されています。
・現在熊本県下で神社数は3200社程ですが、式内社は阿蘇地方の阿蘇神社、国造神社、そして当地方の疋野神社のみです。
「疋野神社」は時代により、また文献により次の様に名称されています。
(疋、匹はどちらも使用されています)
疋(匹)石野神社
疋(匹)野大明神宮
疋(匹)野神社
疋(匹)野宮
◎疋野神社は玉名地方で最高の県社に格づけされた神社で◎
・疋野神社は前述の如く国史現在社・式内社であり、また明治初年には県下で真っ先に県社に列格されました。
・旧玉名郡(現在の玉名郡市・荒尾市含む)内には、約460の神社がありますが、県社は当神社のみです。(県社1社、郷社7社、村社133社、無各社321社)
◎疋野神社の御祭神は古来より、玉名の地に御鎮座・御守護の大神様です◎
・疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません。
大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神様であり、この地方を古来より御守護なされてきた大神様をお祀りする神社です。
・御祭神、波比岐神は日本最古の著「古事記」記載の神様であり日本建国の場づくりをなされた神代の時代の尊い大神様です。
「延喜式」には、天皇御即位時の大嘗祭の八神殿に祀る神として、又祈年祭・月次祭の祝詞や、神明帳の宮中三十六座の中にもそのご神号が見え、特に朝廷のご崇敬が厚い神として記されています。
相殿には父神様であります大年神がおまつりされています。
大年神は、天照大御神と御姉弟であります素盞鳴尊の御子神様です。
・当神社は奈良平安時代、玉名地方の豪族日置氏の氏神神社としてはなやかに栄え、また立願寺という地名は、疋野神社の神護寺であった「立願寺」というお寺の名前が起源です。
◎すばらしい御社殿と鳥居は文化財としても貴重なものです◎
・ 現在の御社殿は江戸時代初期元禄四年(1691)の約300年前
藩主細川綱利公の御造営で堂々たる流れ造りの見事な御社殿です。
二の鳥居は当時の家老八代城主長岡筑後守の寄進の石鳥居であり、これ程古く、またがっしりした鳥居は稀有なものです。
参道正面の一の鳥居は、天をつくような純白の大鳥居で、昭和55年に氏子崇敬者をはじめ国内外の数千人にのぼる多くの人々の真心により奉納されたものであり、県下にほこる大鳥居です。
・御社殿のまわりの石造の玉垣には神社裏手一帯にあった奈良平安時代の玉名郡倉跡の何百個という礎石が使用されています。
(疋野長者伝説の屋敷跡と伝える)
・当神社は、玉名地方を見はらす高台にあり、境内の静寂な御神域には荘厳さがただよい、また春の桜、秋の紅葉も見事なものであり、参拝の人々の目を楽しませてくれます。
◎疋野神社は長者伝説の如く、縁結び・商売繁盛・開運招福に特に御神徳高い神社です◎
都の姫君と奇しき縁に結ばれた炭焼き小五郎は疋野長者とたたえられ・・・・・・
【 玉名温泉の発見者 】
・この玉名地方には疋野長者の伝説が伝えられていますが、その長者の御神陵が社殿真裏にあります。
この疋野長者にあやかり長者の如き幸と福を祈っての参拝者があとをたちません。
・また玉名温泉(旧立願寺温泉)は、この疋野長者発見の出湯と伝えられ、すぐれた泉質と歴史の古さは全国でも有数のものです。

公式HP



疋野長者伝説

境内地の長者の御神陵にまつわる伝説です
千古の昔、都に美しい姫君がおられました。
「肥後国疋野の里に住む炭焼小五郎という若者と夫婦になるように」との夢を度々みられた姫君は、供を従えはるばると小岱山の麓の疋野の里へやってこられました。
小五郎は驚き、貧しさ故に食べる物もないと断りましたが、姫君はお告げだからぜひ妻にと申され、また金貨を渡し米を買ってきて欲しいと頼まれました。
しかたなく出かけた小五郎は、途中飛んできた白さぎに金貨を投げつけました。
傷を負った白さぎは、湯煙立ち上る谷間へ落ちて行きました。
が、暫くすると元気になって飛び去って行きました。
米を買わずに引き返した小五郎に姫君は「あれは大切なお金というもので何でも買うことができましたのに」と残念がられました。
「あのようなものは、この山の中に沢山あります」との返事に、よく見るとあちこち沢山の金塊が埋もれていました。
こうして、めでたく姫君と夫婦になった小五郎は、疋野長者と呼ばれて大変栄えて幸福に暮らしました。
この疋野神社の御神陵には、金銀財宝が埋められているとも伝えられ、また毎年四月には長者祭りが行われています。
白さぎが元気になったいで湯は、現在では玉名温泉として栄え、また疋野神社は長者ゆかりのお宮として、多くのご参拝をいただいています。

公式HP



疋野神社

創立年代詳ならすと雖も、延喜式神名帳に、肥後國玉名郡一座疋野神社」とある神社にして、祭神は即ち「衝神曰先啓」(日本書記)との命を拝せられたる波比木神なり、「按、疋者、千人所曳磐石歟、亦導歟、続日木後紀曰、承和7年7月庚子、以肥後國玉名庄疋乃神預菅社焉(神名帳考証)と見えたり、されど、覈録志料共に祭神を説かずして、唯「今立願寺村匹野原に在り、匹石野大明神と云ふ、匹野は比伎乃と訓む可し(神社覈録神祇志料)而して當社何れの比よりか廃迹となり、旧社地殆ど知る可からざりしを、國主細川綱利、絶えたるを継ぎ云々」(社記)と云へるのみにて、更に考拠を得ざるも、肥後國志に、「当社は肥後國四社の其一にして、疋石野村に在り、延喜式には疋野と記し、続日本紀には疋石野と書し、当所にては疋石野と書す、所祀神不分明なり、或説素盞鳴尊御孫大歳御子波比木神也と云ふ(異本に大己貴の御子ハヒキの神なるや云々)一説乃ち大歳神とも云へり、此社何れの比か廃迩となりたるを、綱利君、延賓6年玉名郡大野庄中村に於て、社産五十石寄附あり、且本社拝殿等造立の社地、二反四畝三歩の貢税あり、將た當社古来神職由緒ある者四人を選み、於京都吉田家、得裁許、社職と定めらる、貞享元年為祈祷料八木二十石を神納せらる」とあり、事蹟通考編年考徴巻二「按疋石野神社は立願寺村に在り(寺廃して今村名となる、繁根木山寿福寺の末寺帳に、本疋石野神社の社務寺なり))祭神詳ならす云々、続紀及式に疋野と書す、皆字の脱漏なり」、阿蘇山記に、「疋野大明神再興之件三社(式内の三座をなす)者阿蘇宮に奉鎮座、今一座者(当社を指す)右の疋野神社にて、御國中に神社多く御座候得共、此外は勧請の社にて候、疋野神者、天下泰平、國土豊饒、武運長久、五穀能成之御神にて、古者從禁中も被成御祭下者、萬民迄奉崇敬候処に、中古以来中絶仕、只今者社號を存候者も無之候間、嘆敷奉存候、先年於吉田御沙汰にも、私方より申上、致再興可然由に候処、当時迄遠慮仕居候得共、御國豊饒の神にて御座候得者、社の形許成共再興被仰付、少之社領被付置者、社人をも添置、年々神事致勤仕、御祈祷をも仕度奉存候、右之旨以御序、御家老中迄被仰上可被下候頼存候以上、
延宝4年正月21日阿蘇宮内少輔
白木五兵衙殿木造五右衛門殿とあり、又、下玉名郡立願村疋野大明神社中之覚書にも、
一社中山籔へかけ、昔は一町四五反も御座候由、只今は右之通に壱反二畝余にて云々、一九月分御祭御供田、2月5月両度の御祭御供田、並しとぎ田、油田、土器田など、申社領分、さて又、長者家敷にて御座候と申傳候分共に田畠にて、唯今は四町四反余に候事、延宝4年2月朔日、庄屋甚右街門」など見ゆ、富巷曰、「此記に依れば、再興以前にも、聊かばかりは社壇の形残れりと覚ゆ」とあるに由れば、略本社沿革の梗概を知るに足るべし、明治の初年縣社に列せらる、因に云ふ、社頭の石鳥居は長岡筑後直之の寄進なり。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、玉垣等にして、境内1041坪(官有地第一種)を有し、社地は小代山の東麓に位し、遠く眺望の勝に富みて、境内一点の塵埃を見ず。

明治神社誌料



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