崇神天皇の朝に、阿蘇初代国造と定められ、同18年(紀元581年)御子惟人命(彦御子神)に勅せられて、阿蘇国造の神として、御居住の地(現在地)を卜して鎮座という。 国造神社のある手野地区を取巻く一帯には数多くの古墳が分布している。この一帯には「千枚田」と称して條里制遺構も残つている。 式内国造神社は阿蘇神社の三の宮とする説がある。 |
由緒 ◎由緒・沿革 御主神国造速瓶玉命(はやみかたまのみこと)は、肥後一ノ宮阿蘇神社の主神健磐龍命(たけいわたつのみこと)の第一の御子神にして、延喜の制式内宮(官社)に列せられて、阿蘇神社と同格の御社であり。父神健磐龍命の聖業を嗣がれ、阿蘇の開拓に水利にと国土開発の大業をなされ、庶民に農耕を教え畜産に植林に万幸を与え衆庶を愛撫し、人徳を施された。 この御聖徳と御功業により、第10代崇神天皇の朝に、阿蘇初代国造と定められ、同18年(紀元581年)御子惟人命(彦御子神)に勅せられて、阿蘇国造の神として、御居住の地(現在地)を卜して鎮祭せられ、茲2071年の歴史ある古いお社であります。 此の間上歴朝の尊崇はもとより、下万民の敬仰する所で、国司、藩司の崇敬も亦篤く、中世以降に於いても肥後の大守細川氏も阿蘇神社と共に造営に、祭典に、代々藩費を供進せられ、現在の社殿は寛文12年(1672)細川五代綱利公の御造営のものである。 古来、農神としての信仰厚く、五穀豊穣に晴を祈り、雨を乞ひ、又害虫消除に頗る霊験新たかであり、近郷近在より其の時折に祈願参拝も多く、近年には阿蘇の古名社として、遠来よりの参拝も沢になりゆき之大神の偉大なる御恩頼を渇仰する故に外ならない。 明治7年10月には県社に列せられた。 ◎境内社地と神域 国立公園阿蘇の外輪山の東北隅なる内壁の幽すいの地にして、数十株の古杉は森々と神寂びて神々しく、別けて「手野の神杉」は、亭々として高く雲表に聳え、社前を流るゝ宮川は、水あくまで清く、後方(北側)は外輪山の連峰を廻らし、前方(南面)は美田開けて遥かに雄大なる阿蘇の五岳を一望に納め、附近には古墳点在して、風致最良く、春、夏、秋、冬夫々の趣あり。 ◎神代杉(手野の大杉) この杉は、国造速瓶玉命御手植の神杉と伝えられ、陰、陽の二株あったが、その大なる一株は、文政の頃、火災に罹り、焼失した。(現在は一株であるが、この地方の人々は今でも二本杉と呼んでいる)この杉は特に香気があり、肌は沈木の如くありて、友隆大宮司の時、畏くも桜町天皇の御笏の料として献上され、その後御桃園天皇の御時に、和香木の名を定められ、此の杉を阿蘇香と命じられたと伝えられる。 国指定天然記念物(大正13年12月内務省指定) 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
国造神社 由緒・沿革 御主神 国造速瓶玉命は、肥後一ノ宮阿蘇神社の主神 建磐龍命の第一の御子神にして、延喜の制式内社(官社)に列せられて、阿蘇神社と同格の御社であり、父神建磐龍命の聖業を嗣がれ、阿蘇の開拓に水利にと国土開発の大業をなされ、庶民に農耕を教え畜産に植林に万幸を与え衆民を愛撫し、仁徳を施された。 この御聖徳と御功業により、第十代崇神天皇の朝に、阿蘇初代国造と定められ、同18年(紀元581年)御子惟人命(彦御子神)に勅せられて、阿蘇国造の神として、御居住の地(現在地)を卜して鎮祭せられ、茲に2000年以上の歴史ある古いお社である。 此の間上歴朝の尊崇はもとより、下万民の敬仰する所で、国司、藩司の崇敬も亦篤く、中世以降に於ても肥後の大守細川氏も阿蘇神社と共に造営に、祭典に、代々藩費を供進せられ、現在の社殿は寛文12年、細川五代綱利公の御造営のものである。 古来、農神としての信仰厚く、五穀豊穣に晴に祈り、雨に乞ひ、又害虫消除に頗る霊験新かであり、近郷近在より其の時折りに祈願参拝も多く、近年には阿蘇の古名社として、遠来よりの参拝も沢になりゆき之大神の偉大なる御恩頼を渇仰する故に外ならない。 明治7年10月には県社に列せられた。 社頭掲示板 |
国造神社 速瓶玉命は健磐龍命の子にして、阿蘇國造なり、國造本紀に「阿蘇國造瑞離朝御世火國造同祖神八井耳命孫速瓶玉命定賜國造」とあり、景行天皇18年、勅して社殿を造営し、速瓶玉命を祭らしめ給ふ(社伝)延喜の制式内小牡に列す(神名帳考証、神社覈録、神祇志料、太宰菅内誌)続日本紀に、 「仁明天皇承和14年7月丁卯、修造肥後国阿蘇郡国造神為官社」 士俗北宮と称す、宮地村なる阿蘇神宮の北に当るを以てなり(肥後国志、陳迹志、地名辞書)明治5年県社に列す、社殿は本殿、祓殿、拝殿、社務所を具備し、境地2417坪(官有地第一種)あり、境内に陰陽杉と称る老杉二株あり、一株は周囲十三抱、一株は十一抱に及び、轟々として天に聳ゆ、凡そ九百年に及べりといふ(太宰管内志、肥後国志)、又この地は、速瓶玉命の石隠れし給ふ処なりとて、御穴の故蹟あり、土俗御藏穴と称す、上下の二あり、外形は圓形の小丘にして上に竹籔繁茂せり、穴の口は西南に開きて、形竈の口の如く、五間程匍匐して入れば、高さ九尺、上下左右石を以て畳む、奥に幅二間、高さ八尺余の切石あり、之を障子石といふ、その前に幅三尺、長さ七尺、高さ三尺の石棺あり、下御藏の穴は、埋れて入ることを得す、弘化元年手野の里長某が、字古城といふ岡山を開墾せし時、岩穴三つに開き当れり、この穴の中より直刀、短刀、鑑、轡、玉、土器等種々の古器を得だり、骸骨とおぼしきものもありしも、朽ちてさだかならすといふ、(太宰管内志,蘇渓温故、地名辞書)、 附言、式内國造神社に就ては、神社覈録、神紙志料等の書、共に同郡宮地村阿蘇神宮の三宮なりとなす、なほ後考を俟つべし。 社頭掲示板 |