当社の所在については異説なく、すべて現社地より動いていないとしている。 境内地に縄文時代の遺跡があり、県の史跡に指定されている。 |
荒城神社 延喜式内飛騨八社の一 金幣社 荒城神社 御祭神 一、大荒木之神 国之水国分神 二、彌都波能売神(神社明細帳) 天之水国分神 国之水国分神(特選神名牒) 三、河泊大命神(元禄検地帳 神祇志料) 末社 秋葉神社 津島神社 荒神社 御由緒 「神社明細帳」に、創立は遠く上代とあり、「三大実録」には「清和天皇貞観九年(867)10月5日庚午、授飛騨国五位下荒城神従五位」と見え延喜式神名帳飛騨国八座の一つである。 当社の境内には、縄文時代中期の遺跡があり、多数の出土品があることをても、当社創立の古いことがわかり、郡名を冠した社名によっても上代よりこの地方の信仰を集めていた神社と考えられる。当社の神像二体は平安時代の作と推定され、県指定の文化財である。本殿は飛騨国安国寺の経蔵(0408)よりもやや古く向拝正面の大蟇股に中心の飾りとして宝珠一個をくりぬき、また蟇股両肩の巻き込み飾りなど、室町初頭の手法として明徳元年の頃(1390)の造営と推定される。慶長18年の秋、国主金森重頼が従五位下に叙せられたので、幣殿を造営寄進している。 元禄検地で、除地一反五畝歩村抱河泊明神宮地」とある。 明治4年郷社に、大正15年には県社に列した。昭和5年4月国宝建造物に指定され、同38年7月1日、国指定重要文化財となる。境内にある縄文中期の遺跡は、昭和32年県指定史跡となり、またこの地は、緑地環境保全地域として県の指定を受けている。当社の特殊神事氏子の子供により演ぜられる。鉦打ちは、鎌倉時代、荒城郷地頭であった多好方が教えたとつたえられている。当社の獅子舞とともに県指定重要文化財である。 宝物には、棟札七枚、国指定重要文化財、獅子頭九個、随神二体、鰐口1個、面四面、県指定文化財等多数あり。 例祭日 9月7日 社頭掲示板 |
荒城神社遺跡 岐阜県重要文化財 昭和32年3月25日指定 昭和23年荒城神社本殿裏側附近で道路改修工事の際、住居跡の一部及び縄文時代の土器が多数発見された。 土器は縄文中期後半のものが主であるが、注口土器等後期に属するものも出土している 石器類では打製石斧・石鏃・磨製石斧のほか、三頭石斧・石刀・御物石器・石冠・石皿などがある。 縄文時代前期遺跡の、村山遺跡(国府町村山)と並んで、貴重な縄文中期の遺跡として県指定文化財となった。 社頭掲示板 |
荒城神社・本殿 荒城神社・本殿 (国指定重要文化財) 祭神 大荒木之神・国之水分神 弥都波能売神 本殿は明徳元年(1390年)に建立されたもので三間社流造柿葦の優雅な曲線を表している。 平安時代に編纂された延喜式神明帳にその名が飛騨国式内八社の一つとして記され、その歴史の古さを示している。 鎌倉時代に記された吾妻鑑によると1193年に荒城郷(現在の国府町の一部を含む)の地頭職に京の多好方が任じられたことが記されている。 その際伝えられたとされる荒城神社の鉦打ち・獅子舞は毎年9月7日の例祭時に奉納される。 ■『鉦打(カネウチ)』(荒城神社:写真右) 30〜40人の学童が行う鉦打は、町内の各神社に伝えられています。中でも、荒城神社で行われている鉦打は、重要文化財の獅子舞と共に中世芸能の雰囲気を今に伝えています。 社頭掲示板 |
荒城神社 創祀は平安朝以前。三代実録第十四に「清和天皇貞観九年十月五日。授飛騨國従五位下水無云々荒城神社云々従五位上とあり、又延喜式神名帳に飛騨國八社荒城神社とあるを見、又古事記伝十三巻に美濃の國喪山の未詳なるについて飛騨國荒城神社もあり、心附くべし。とあり、尚諸国の例に見る国名郡名連続するを考ふれば、出雲國出雲神社の如く、荒城郡荒城神社なる事は類例の多い事で、祭神大荒木之命であるところから荒城の地名も現れ、和名類聚抄に荒木郡とあるを見ても古い称号にして、此の大神の名より出たる地名なり。中世郡名を吉城と改めたれど、今尚此の辺を荒城と称す。大正15年2月19日郷社より縣社に列せらる。本殿は元中7年の再建にして昭和5年4月国宝保存により、国庫負担を以て修理をなせり。 岐阜県神社庁 |