大津神社
おおつじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大津神社 飛騨国 荒城郡鎮座

   【現社名】大津神社
   【住所】岐阜県飛騨市神岡町船津1823番地の2
       北緯36度20分4秒,東経137度17分40秒
   【祭神】大彦命 (配祀)武渟河別命 (合祀)建南方富命
   【例祭】4月25日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】貞観9年10月5日従五位上
       建武年間江馬氏諏訪神を勧請し、諏訪大明神と改称
       天正13年(1585)江馬氏滅亡し社運衰退
       文化初年(1804)諏訪大明神を大津神社と改称
       文化11年(1814)大火で焼失
       明治28年大火焼失
       明治4年10月郷社
       昭和5年に県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】元はもっと北に鎮座していたが水害のため遷座という

   【祭祀対象】本来は川を祀る
   【祭祀】江戸時代は「諏訪大明神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋流造檜皮葺
       幣殿・拝殿・神饌殿・廻廊・神輿庫
       宝物置具庫・御手洗舎・社務所

   【境内社】稲荷神社・木魂神社
   【別当寺】天台宗の大津山宗慶寺

穗高、槍ケ岳等より源を発する高原川(神通川支流)に面した高台に鎭座する。
鹿間の金・銀・鉛の鉱山により繁栄を極めた。
もとは、もっと北に鎮座していたが、水害のため遷座。さらに明治28年の船津大火災により、現社地へ遷。
建武年間に高原郷の領主・江馬氏が武神信州諏訪大明神の分霊を勧請、社号も大津神社から諏訪大明神と改めた。
江戸時代、田中大秀により大津神社に比定された。


大津神社

式内社大津神社御祭神並御由緒
本社
主神 大彦命 第八代孝元天皇の皇子に坐す
武渟河別命 主神の嫡子
建南方富命 信州諏訪神社御分霊神
境内社
摂社(合祀神社および御祭神)
神明神社 天照大神 鉱山神社 金山彦大神
水波神社 水波能売大神 金山姫大神
秋葉神社 火彦霊大神 菅原神社 菅原道真
大山祇神社 大山祇大神 事代主神社 恵美須大神
墨縄神社 彦狭知大神 猿田彦神社 猿田彦大神
手置帆負大神
飛騨匠御霊
津島神社 建速須佐之男大神
末社
稲荷神社 宇賀御霊代神
木魂神社 久々能智大神
御由緒
当大津神社の創始年月については不詳であるが平安時代の初期頃すでに祭祀されていたことは確かである。当時の正史ともいうべき文徳天皇実録・清和天皇三代実録に神階昇叙の御沙汰があったこと、また醍醐天皇の御代に編集された延喜式神明帳にも、飛騨国内八社の一つとして祭祀されていたことが記載されている。
中世建武年間に至って高原郷の領主江馬氏は武神信州諏訪大明神を篤く信仰、この時その分霊を勧請し、社号も大津神社から諏訪大明神と改めた。従って江馬氏は累代にわたってこの神の祭祀を怠らず、崇敬の誠を尽くした。
天正10年高山の松倉城主三木氏との戦いに敗死し、江馬一族も天正13年に滅亡した。その時から諏訪大明神は強力な外護者を失った。その後飛騨の国主となった金森氏も諏訪大明神を尊崇元禄5年幕府は金森氏を出羽に遷して飛騨一国を直轄地とした。しかるに文化の初年国学者田中大秀の門に学んだ当地の稲田元浩・大森旭亭・吉村友閑斎らの考証により、師の田中大秀の賛意を得て社号を諏訪大明神から大津神社に改称、往古の称号に復帰した。
明治維新直後の明治4年10月筑摩県(岐阜県)郷社に列格した。昭和5年12月内務省から県社昇格の旨示達があり、なを終戦後の昭和22年2月官制廃止とともに神社本庁に属し金幣社に又平成2年9月に特別金幣社に列した。

社頭掲示板



船津盆踊り

県指定無形文化財
船津盆踊り
昭和44年8月5日指定
船津盆踊りは毎年8月14・15・16日大津神社の境内で行われます。
この盆踊りの起こりは、はっきりしませんが、始めは「くどき」だったのが江戸時代半ば過ぎあたりから短い単独の歌詞が生まれ、江馬氏や茂住宗貞、糸屋太郎兵衛、小萱の薬師堂さては梅村騒動まで歌い込まれるようになりました。
歌詞のくり返しに独特の妙味があり、その曲は極めてテンポが緩いのに粋できっぷのいい江戸の木遣り唄を思わせる節々があります。 踊りもテンポは遅いけれど手の振りなど腰の線より上での動作が大振りであり、ときに手足同じ方を出して踊るところもあって、踊りの古い形を十分に残しています。
昭和51年4月
神岡町教育委員会

社頭掲示板



大津神社

創祀未詳。国史見在社。飛騨國八社の一。傍らに大津山宗慶寺と号す所謂天台宗なりと云ひ伝へる別当職あり。往古氏子八十余戸御社南面に崇め、北三丁隔地、高原川の水岸近く、家居して大津と謂ふ。然るに時々水災あるを愁たみ家居を今の地に移す。その頃往還通橋を流損すること再三なる故に船を造りて渡を求むるに人皆不図船津と化唱す。大津敷座す地は古今に大津と確唱す。中昔殿村諏訪城主江馬家代々尊敬の御社にして14代左京之進平時経、二男重種を以て大津の地に居館を建て住す。改姓して大島近輔平重種と称す。此地理高原川と山田川の二流を合す州崎の島形なるを以て大島と改むか。大神を厚く信敬して社殿を造営あり。江馬、大島両家より奉納の神宝産子貯せしを文化11年8月22日市中大火の節焼失す。天正10年、江馬・大島両家没落の後神社造営不行き届き、宗慶寺廃絶す。文化年中信州の小県郡西条村関沢築後守藤原頼美当社の大宮司奉仕。文化14年2月4日頼美上京して神祇官領に願い出禁裏に奏上あれば官弊御告文勅許。正二位。明治5年筑摩縣下十九区の郷社。同8年当区四十九ヶ村合併し神岡村と改正す。明治28年社殿境内社焼失明治34年4月1日現在地に移転。昭和5年縣社に列す。

岐阜県神社庁



大津神社

延喜式内社 特別金幣社 大津神社
大津神社の創始年月は不詳ですが、平安時代の初期頃の正史ともいうべき文徳実録・三代実録には神階昇叙のご沙汰があったこと、また、延喜式の神明帳にも飛騨国式内八社の一つとして祭祀されていたことが記載されています。
明治維新直後の明治4年(1871)10月筑摩県第30大区の郷社に列格、昭和5年(1930)12月内務省から県社に昇格、終戦後の昭和22年(1947)官制廃止とともに神社本庁に属し金幣社に、平成2年9月に特別金幣社に列しました。
また、明治28年(1895)の船津大火により、大島の地(現在の船津座付近)から、現在の場所に移築され、今にいたります。
この大津神社と東町白山神社、朝浦八幡宮が催行する春の例祭「神岡祭」は、雅な大行列を特徴とし「高山祭」「古川起し太鼓」と併せ「飛騨三大祭」のひとつとされています。

社頭掲示板



ノーベル賞受賞記念植樹

この桜は神岡町東茂住「東京大学宇宙線研究所」神岡宇宙素粒子研究施設・スーパーカミオカンデ(SK)で研究を重ね素粒子に質量があることを実証し「ノーベル物理学賞」を受賞した「梶田隆章」先生のノーベル賞受賞を記念に「岐阜県林政部」から川西双葉クラブが桜苗木を無償で配布を受けて植樹したものです、樹種「淡墨楼」合計20本
生産地 白鳥林木育種事業地
平成28年7月
植栽者 川西双葉クラブ 

社頭掲示板



大津神社

大津は於保都と訓べし○際神詳ならず
類社
河内國丹比郡大津神社の條見合すべし
神位
三代實録、貞観9年10月5日庚午、授飛騨國從五位下大津神從五位上、

神社覈録



郷社 大津神社

祭神 武淳河別命 大毘古命 建御名方命
相殿 墨縄大神 鉱山大神 稻荷大神 罔象女大神
   津島大神 愛宕大神 菅原道真 神明大神
   猿田彦大神、大山祇大神
創建年代詳ならず、霊形は神鏡及び木像なり、社伝によれば、当社は初め大津神社と云ひ、式内小社なりしが、後今の名に改むと、清和天皇貞観9年10月5日庚午、從五位下大津神に從五位上を授けらる(三代実録)飛騨国総社考に「大津神社、未詳、今吉城郡高原郷舟津町村諏訪大明神の神是歟、もと船津は今の地より北方にて、古大津と云しを、度々水災有しによりて、今の地にうつして、船は水にしたがふ物なればとて、船津とあらだむ、故に今も船津町には大津屋といふ家とも有は、其名こりなりとそ、かくて此諏訪社は、今川の中島に弊財天を祭れる所に在しを、船津に家をうつせし時、今の地に移し奉れりと云傳ヘたり、然れば諏訪社といふはもと大津神社歟と、舟津人稻田元治いへり」と見ゆ、然れども特選神名牒に、
「大津神社、所在、今按注進状ニ船津町村アリ、飛騨神社考二荏野冊子総社考ニ、大津神社所在未詳、今吉城郡舟津町村ナル諏訪明神社是歟、本舟津ハ今ノ地ヨリ北方二人家アリテ、古へ大津ト云シヲ、水害二依タ今ノ地ニ移シ、舟津ト改ム、今モ彼ノ地ニ大津屋ト云者アルハ其余波ナリ、ナレバ諏訪神社ハ即本ノ大津神社ナルベシト里人稲田元治イへリトアルハ、元治ノ妄言二欺レタルナラムト云ヒテ、吉城郡村山村ノ天満宮、実ハ天津神ナリ三代實録ニ大津神社トアリ、神名帳ニ大津神社トアルハ、モト天津神ト奏シケンヲ、伝写ノ誤リシナルベシト云リ、総社考ニ大津屋ト云アリトテ所在ヲ確定シタルモイカガナレド、三代實録神名帳両書トモニ大津トアルヲ、天津ノ誤リト云ルモ強タル説ナレバ從ガタシ、猶ヨク考ヘタ定ムベキナリ」
と見ゆる如く、本社が果して式内の大津神社なるやに就いては、異論あるものの如し、船津今船津町と云ふも寛は山村なり、其村坊は高原川の左岸にして、高山を去る七里、高原郷の小都なり、舟津は昔船渡と称したりしを、宝永4年舟津と改めたり、閑田耕筆に、舟津の藤橋は33間の籠渡なりし由を述ぶ、今は尋常の製とす、社記に云ふ、中世殿村諏訪城主江馬氏、代々崇敬厚く、其十四代の孫左京之進平時経の次男重輝、初て居館を大津の地に建て大島姓を称す、重輝殊に崇信深く、社殿を改造す、爾来江馬大島両家より数種の神器を寄付し、時時奉幣を怠らざりしが、文化11年8月22日民家より火を失せしため、社殿まだ其災厄に遇ひ奮記録等悉く灰燼に帰す、是より先天文年間本社附近に鎮祭せし、建御名方命を合祀ぜるものなりと云う、明治5年郷社に列せられ、同29年12月同町字寺の上に移転せり、今や境内田畑山林を合せて七十二町歩余を有す。
社殿は神殿、幣殿、拝殿、神庫、石鳥居、木島居、清浮泉、社号石、郷社碑、石燈籠を等具備し、境内坪数419坪(民有地第二種)を有し、社頭は神成山の麓にあり、前面展望数十里に渉る。
宝物は御捧書一通(神祇管領吉田家より奉納)水晶玉一個(径三寸二分)大鏡一面(径三尺三寸五分)劔一振(無銘)大日本史(百冊)群書類從(数百冊)等を藏す。

明治神社誌料



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