荏名神社
えなじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】荏名神社 飛騨国 大野郡鎮座

   【現社名】荏名神社
   【住所】岐阜県高山市江名子町1290番地
       北緯36度8分6秒,東経137度16分16秒
   【祭神】高皇産靈神
   【祭神諸説】大屋津姫命 『神名帳考證』
         稲置森子安神 『飛州志』

   【例祭】5月2日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀年代不詳。
       仁寿元年(851)正六位上「文徳天皇実録」
       貞観9年(867)従五位上「三代実録」
       文化11年(1814)田中大秀小祠稻置の宮に神鏡を奉納
       文化12年(1815)八月再建
       文政元年(1818)9月社殿普請
       明治4年郷社
       同40年神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地が当初の地か不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】中世子安大明神と称した
   【社殿】本殿板葺神明造
       幣殿・拝殿・神樂殿・神饌所・神門・樂殿
       神輿庫・倉庫・社務所

   【境内社】

文化12年(1815)高山の国学者田中大秀により再興されるまで「稻置森」と呼ばれていた。
文化11年(1814)田中大秀が小祠稻置の宮に神鏡を奉納し馬翌12年(1815)8月晦日より両日はじめて花火・湯之花神事を執行した。文政元年(1818)9月社殿普請、8・9両日例祭を執行した。その後大秀は自ら神社を守護するため居を社傍に移し、荏野翁と号した。
これに対して加藤歩篇は「延喜式飛騨八神之内荏奈明神の社地むかしよりしる人なし、しかるを田中屋彌兵衛といふ人江名子村いな桶といへるちいさき祠を荏奈明神なりとて、文化11年新たに荏奈の神名を鋳たる神鏡を納め、文化12年8月始て神事を行ける、古來より社地の詮議分明ならざるを、いかなる証拠を見出したるや、若はおしはかりにて荏奈の社地なりといふにやしられず、御検地帳にもなければ、宮地とは難仕所也」と非難している。


荏名神社

創祀未詳なれども、延喜式神名帳に曰く、飛騨國大野郡(三座の内)荏名神社是なり。三代実録に曰く、貞観9年10月5日授飛騨國従五位下荏神従五位上。飛騨後風土記に曰く、荏名子村荏名神社祭神(高御産巣日神・愛那能御神)。田中大秀翁文化14年此神社を再建して社傍に自宅を建て、移り住み荏名翁と自号せらる。和漢三才図会に曰く、荏名明神在大原郡(原は野の誤りならむ)。

岐阜県神社庁



荏名神社

式内 荏名神社
祭神 高御産巣日命
   愛那能御神
江名川と塩谷川の合流地点に一個の巨石が存在する。この神社は古来稲置の森といわれ小祠があった。文化12年(1815)飛騨が生んだ国学者田中大秀は延喜(905)の昔定められた飛騨八社の内の一社であったことを考証し、神域を整備し社殿を改築して境内の一隅に千種園と称する邸宅を建て、祭祀を怠らず著作と後進の養成に努めた。
境内の荏名文庫土蔵は京都の神楽園の土を運んで名工江戸屋万歳に塗り上げさせたもので、中に大秀翁の遺作彫像や八雲文台を蔵する。
指定文化財
1.荏名文庫土蔵 1.田中大秀墓(境外) 県指定
1.八雲文台 1.神橋 1.道分灯籠(境外) 市指定

社頭掲示板



田中大秀

鈴屋門下の逸材田中大秀翁は安永6(1777)年8月酉の日の酉の刻高山一之町村の商家に生まれた。40歳を過ぎて家を嗣子寿豊に譲り、式内荏名神社を再興して傍らに移り住み、自ら荏野翁と称した。
この地における日日の研鑽が名著「竹取翁物語解」その他かずかずの業績を生み、ここはまた、多数の門人を指導する教場ともなった。千種園の名は大伴家持の歌に由来し、東方乗鞍岳の上に出る月の眺めが格別なので、居宅を賞月■とも呼んだ。
ことしへにたえせずもがと大前に
御石の橋は仕へ奉りつ 大秀
いま碑面に刻まれた歌は石の神橋を架け渡した時の翁の喜びの作、橋は江名子川の洪水にも落ちないよう工夫され、橋上から眺める雪景色は千種園の八勝の一景にも数えられた。
弘化4(1848)年9月16日翁は静かに71年の生涯を閉じ、南東松室岡の上に葬られた。
平成8年9月
田中大秀翁顕彰会

社頭石碑



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