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文化12年(1815)高山の国学者田中大秀により再興されるまで「稻置森」と呼ばれていた。 文化11年(1814)田中大秀が小祠稻置の宮に神鏡を奉納し馬翌12年(1815)8月晦日より両日はじめて花火・湯之花神事を執行した。文政元年(1818)9月社殿普請、8・9両日例祭を執行した。その後大秀は自ら神社を守護するため居を社傍に移し、荏野翁と号した。 これに対して加藤歩篇は「延喜式飛騨八神之内荏奈明神の社地むかしよりしる人なし、しかるを田中屋彌兵衛といふ人江名子村いな桶といへるちいさき祠を荏奈明神なりとて、文化11年新たに荏奈の神名を鋳たる神鏡を納め、文化12年8月始て神事を行ける、古來より社地の詮議分明ならざるを、いかなる証拠を見出したるや、若はおしはかりにて荏奈の社地なりといふにやしられず、御検地帳にもなければ、宮地とは難仕所也」と非難している。 |
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荏名神社 創祀未詳なれども、延喜式神名帳に曰く、飛騨國大野郡(三座の内)荏名神社是なり。三代実録に曰く、貞観9年10月5日授飛騨國従五位下荏神従五位上。飛騨後風土記に曰く、荏名子村荏名神社祭神(高御産巣日神・愛那能御神)。田中大秀翁文化14年此神社を再建して社傍に自宅を建て、移り住み荏名翁と自号せらる。和漢三才図会に曰く、荏名明神在大原郡(原は野の誤りならむ)。 岐阜県神社庁 |
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荏名神社 式内 荏名神社 祭神 高御産巣日命 愛那能御神 江名川と塩谷川の合流地点に一個の巨石が存在する。この神社は古来稲置の森といわれ小祠があった。文化12年(1815)飛騨が生んだ国学者田中大秀は延喜(905)の昔定められた飛騨八社の内の一社であったことを考証し、神域を整備し社殿を改築して境内の一隅に千種園と称する邸宅を建て、祭祀を怠らず著作と後進の養成に努めた。 境内の荏名文庫土蔵は京都の神楽園の土を運んで名工江戸屋万歳に塗り上げさせたもので、中に大秀翁の遺作彫像や八雲文台を蔵する。 指定文化財 1.荏名文庫土蔵 1.田中大秀墓(境外) 県指定 1.八雲文台 1.神橋 1.道分灯籠(境外) 市指定 社頭掲示板 |
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田中大秀 鈴屋門下の逸材田中大秀翁は安永6(1777)年8月酉の日の酉の刻高山一之町村の商家に生まれた。40歳を過ぎて家を嗣子寿豊に譲り、式内荏名神社を再興して傍らに移り住み、自ら荏野翁と称した。 この地における日日の研鑽が名著「竹取翁物語解」その他かずかずの業績を生み、ここはまた、多数の門人を指導する教場ともなった。千種園の名は大伴家持の歌に由来し、東方乗鞍岳の上に出る月の眺めが格別なので、居宅を賞月■とも呼んだ。 ことしへにたえせずもがと大前に 御石の橋は仕へ奉りつ 大秀 いま碑面に刻まれた歌は石の神橋を架け渡した時の翁の喜びの作、橋は江名子川の洪水にも落ちないよう工夫され、橋上から眺める雪景色は千種園の八勝の一景にも数えられた。 弘化4(1848)年9月16日翁は静かに71年の生涯を閉じ、南東松室岡の上に葬られた。 平成8年9月 田中大秀翁顕彰会 社頭石碑 |
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岐阜県指定史跡荏野文庫土蔵 カラー鉄板葺、二階建 桁行3.47m 梁間3.47m 国学者田中大秀の文庫蔵で、火災と鼠害から守るために池の中に建てられている。 大秀は、天保10年(1839)に土蔵の建築を思い立ったが、五年後の天保15年(1844)6月になって手斧始め、翌弘化2年(1845)に完工した。壁土に京都神楽が岡の土を用い、飛騨国内各神社の注連縄を集めてスサに使ったと伝えられる。 二階前面明り窓の上には、「荏野文庫」の文字を浮彫りにした扁額が掲げられていた。橋も以前は簡単に取り外せる木橋であった。 旧蔵書の大部分は、飛騨高山まちの博物館に保管されている。 昭和36年2月24日指定 高山市教育委員会 社頭掲示板 |
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荏名神社神橋 附田中大秀筆設計図 橋台の上部から斜め上方へ長形の撥石を突き出し、その上に二層の梁石を重ね、最上層に桁を渡す。この構造により桁をより短く、より高くすることが出来た。田中大秀が設計し、弘化2(1845)年9月完工した。 社頭石標 |
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荏名神社 荏名は假字也○祭神詳ならず○灘郷江名子村に在す、國人田中紀文云、今俗に稻置の森と云ふに小社ありこれ也、又森の中に大石あり、 類社 美濃國恵奈郡恵奈神社 神位 三代實録、貞観9年10月5日庚午、授飛騨國從五位下荏名神從五位上 神社覈録 |
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郷社 荏名神社 祭神 高皇産霊神 荏名之大神 創建年代詳ならずと雖も、廷喜の制式の小社に列す、即ち神名帳考証に、「荏名神社、大屋津姫命、美濃國恵奈神社同神」と見え、飛騨國総社考に、「大野郡灘郷江名子村にまします、今稲置森といひ、中世子安大明神と申よし、長谷川氏の飛州志に見ゆ、大秀按に、荏名を胞にとりて、安産を祈しなるべし、こは大和國吉野の水分神社をミコモリと訛て、つひに今は子守と申て、子をいのる神とまうすがごとし、古事記伊邪河宮(開化天皇)段に、日子坐王聚山代荏名津比売云々と見え、斐太後風土記に、荏名は高山より行に、守屋と稻荷との社前を過て、江名子に入る村の口なり今も此里人荏を多く作るに能榮え、又自然も生出づ、荏名は(名は借字)荏野なりと云、其を諸人の知らで社も衰廃たるを、飛州市に、稻置森子安神祠ありと記され、又里俗の荏野を胞衣なりと思ひ違ひて安産を祈りしを、田中大秀(吾師荏野翁)いたく糠慨て、文化14丁丑年此荏野神社を再建て、社傍に家を建て、高山より引移り荏野翁と自號て、朝夕に神に齊仕てまつられしが、後其住れし家を高山へ引払ひぬ」と見え、神祇志料にも「今灘郷江名子村稻置森にあり、荒神宮と云ふ、清和天皇貞観9年10月庚子、從五位下荏名神に從五位上を授く』と載せだり、其他神社覈録、特選神名帳等悉く其説一致せり、今之を省く、是に由りて本社の概略を窺知すべし、明示4年9月郷社に列せらる。 社殿は一宇にして神門あり、境内坪数460坪(官有地第一種〕を有す。 明治神社誌料 |