古社地の神ノ木の宮跡(現在は氏子に元宮(モトミャ)と呼ばれ稻荷社が祭られて居り、旧社殿跡の大きな礎石が残されている。 |
垣田神社 当社は、往昔、現在の小野市小田町字神ノ木、つまり小田を貫流する東条川の川北の山の中腹の高台地に祭られていました。今、垣田神社の元宮といわれている稲荷社のあるところ附近で、神ノ木という地名が神聖な場所であったことをあらわしています。もちろん、この地方、つまり東条川流域に人々が住みついたのも、この神ノ木の垣田の神を齋きまつる氏子の人々が最初で、当然に、この東条の町や村はここから別れていった氏子らが開拓したものなのです。 そのことを裏付けるかのように、氏子区域内から弥生時代遺跡が三箇所発掘されています。したがって神ノ木は東条地方の発祥の地といってもよいでしょう。 然も神ノ木の山麓は古古墳群が続き、南の小野市中谷町の愛宕山古墳、東の東条町松沢の横山古墳、西の小野市船木町芝打野一帯から北山を経て中番町東野に展開する船木古墳群の、ちょうど要の位置にあります。その上、この神ノ木は四方を眺望する高台で高地性遺跡的性格をもそなえているため、神社の創建は弥生時代初期か、あるいは縄文時代後期あたりまでさかのぼるのではなかろうかといわれています。また、垣田神社の祭祀圏内に住吉神と密接な関係をもつ船木族の住みついた船木村や金属技術集団の菅田族の氏神である式内菅田神社をもつことも歴史の古さを物語っています。 そして、現在の小野市小田町字住社に奉遷されたのが平城天皇の大同2年9月で、おそらく、東条川の水流の固定化により、小田という地名がしめすように、湿地帯が沢山の水田にかわり農業の発展を促したため、氏子の人々の住居も高台の神ノ木から沢や谷の附近に移転したからではないでしょうか。当社の神宮寺だといわれている西の小田町字坂口の西福寺(現在廃寺)や東の松沢町字大深谷の東福寺の建立は平安時代末期の頃でしょう。 その平安の初期の醍醐天皇の昌泰2年に、勅使藤原公方を御差遣になり奉幣の儀がおこなわれ、その時、垣田大神の勅号を贈られたといわれています。つまり延喜元年に神功皇后を配祀したため、垣田住吉大神ととなえられていたのを勅号の垣田大神と称するようになったのです。播磨國の名社として延喜式の神名帳に記載され、勅使参向の官社に加列されたのもこの頃です。 また当地方(加東郡、加西郡、美嚢郡と多紀郡、多可郡、加古郡、印南郡、神崎郡、明石郡の一部)が、大阪の住吉大社の神領に組み込まれた際、東条地方の管理を依託されたためでしょうか、一時期、東条別宮と称えていたといわれています。今でも別宮さんという呼び名が残っています。字の住社もこの住吉神を祀り、住吉大社との深いかかわりをしめすものでしょう。 戦国時代の天正7年、三木城合戦の際、その支城の小田城の兵乱により社殿ならびに古文書、宝物を悉く焼失、このため羽柴秀吉は託状文を書き神田二段余を奉納しています。江戸時代は小田の地が姫路藩の領地になったため城主の酒井家は、姫路藩内の名社として定紋付高張提灯一双を奉献し、加古川の渡場に垣田神社の社名を刻した標柱を建て、藩主交替のたびに名代を差遣して代拝させました。 明治6年11月郷社に列し、大正12年5月県社に昇格しました。 当社は昔から交通安全の神、清祓の神、安産の神として氏子はもとより遠近の信者の尊崇をうけていますが、最近では、神功皇后の御神徳にあやかり必勝の神として受験生やスポーツマンの信仰をもあつめています。 なお、当社の祭祀を司どる社家の垣田家は神社の草創の古代から今日まで、その運命を共にし、当地方はもとより広く加古川流域で最古の家系を伝えています。 由緒書 |
垣田神社 往昔、小野市小田町字神ノ木、つまり小田を貫流する東条川の川北の山の中腹の高台地に祭られた。今、垣田神社の元宮といわれている稲荷社のあるところ附近で、神ノ木という地名が神聖な場所であったことをあらわす。 平城天皇の大同2年(807)、今の地に遷座。 当社の神宮寺だといわれている西の小田町字坂口の西福寺(現在廃寺)や東の松沢町字大深谷の東福寺の建立は、平安時代末期の頃であろう。 昌泰2年(899)に、勅使藤原公方を御差遣になり奉幣の儀がおこなわれ、その時、垣田大神の勅号を贈られたといわれている。 播磨国の名社として延喜式の神名帳に記載され、勅使参向の官社に加列されたのもこの頃である。 明治6年(1873)郷社に列せられる。 大正12年(1923)、県社に昇格。 兵庫県神社庁 |