菅田首の一族がその祖神である天久斯麻比止都命を奉じて当地に移住し、奉齋したものであろう。 元は菅田字南垣内に鎮座していたが(その旧地をいまも宮山と呼ぶ)、川をはさんで南北の両氏子が社地の移転をめぐつて多年紛擾を重ね、遂に保安年間に氏子協議の結果、分裂移転することになり、南方派は現在の菅田字源太夫垣内に新社殿をつくつて御神体を奉遷、これが現在の菅田神社である。また北方派は嶋の垣内、つまり現在の小野市中番町字嶋ノ垣内に社地を選定し同年の霜月25日をトして御分霊、御神宝を東條川の川中にある亀岩(現在は菅田字中の川にあり菅田橋の橋脚を支えている、神体岩という)の岩の上で受取り奉遷したという。 |
菅田神社 延喜式所載の菅田神社の分霊にして、保安年間(1120〜1123)、今の地に遷座。住吉三神を合祀し、住吉神社と称すも、後、日吉神社を合祀し、山王権現と崇める。あるいは、式内菅田神社を当社とする説もあり。 延久2年(1070)、万治3年(1660)、社殿再建。 明治以降、菅田神社と改称。 明治7年(1874)、村社に列せられる。 兵庫県神社庁 |