当社は初め境あるいは坂合と称えたが、のち佐加穗(サカホ)又は佐加袁(サカヲ)になり、更に現在の佐保又は佐袁(サヲ)に変つたという。 むしろ東実の佐保神社の分社であつたが交通路の変遷や、門前町の集落の巨大化にともなつて分社が大きくなり、遂には本社を圧倒する程成長して、本社、分社の関係が転倒したものと思われる。 |
由緒 佐保神社は、最初、名前を坂合神社と呼んでいました。ところがこの呼び名が、時代と共に変わり、佐加穂となり、更に現在の佐保神社となりました。 御祭神は中央の御殿に天児屋根命、東側の御殿に天照大神、西側の御殿に大己貴命(大国主命)の三神で、別名三社大明神と呼ばれていたのは、このためでまた佐保大明神とも称されるようになりました。 次に当神社の歴史について少し説明したいと思います。 先ず、いつ頃から現在の場所に鎮座されていたかと申しますと、記録によれば、奈良時代の初め(元正天皇の治世)今から約120年前の養老6年(西暦722年)3月に神託(神の御告げ)を受けた阿倍野三郎太夫(社町野村小部野の人と伝えている)という翁が、加西の鎌倉峰よりお遷し申し上げたとのことです。 それ以来、当神社は、社町・滝野町・小野市の一部にまたがる広い範囲にわたり、氏神様として人々の深い信仰を集めてきました。とりわけ、鎌倉時代には尼将軍として有名な北条政子が当神社を崇敬し、本殿の再建や四方に八基の鳥居を建てさせたりしている事実から、当時では既にかなり著名な神社であったことがわかります。江戸時代に入り、数回本殿の建て替えが行なわれ、現在の建物は、延享4年(西暦1747年)8月に再建されたものです。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
佐保神社 兵庫縣加東郡社町社字宮之前御鎭座 縣社 佐保神社御由緒略記 ◎御祭神 天見屋根命(中殿) 天照大神(東殿) 大巳貴命(西殿) 三座 ◎御由緒 當社は元坂合神社と称へました。それで醍醐天皇の朝に、藤原時平忠平等が勅を奉じて撰定した所の延喜式の神名帳には、播磨國賀茂郡(今の加東加西二郡に當る)の官社八座の中に、坂合神社と載せてあります。 即ち所謂式内の宮で、除程古い御由緒の有る神社であります。今では社名が佐保神社に変つては居るが、式内坂合神社が當社の事であるといふ考証は、徳川光圀の大日本史神砥志や、平野庸修の播磨鑑や、後藤基邑の播陽事始経歴考、村岡良弼の日本地理志料など有名なる史籍に悉く記されてあります。 さて延喜時代に既に朝廷に於て、官社として敬祭遊ばされた程であるから、その創立は荷すっと遙かに遠い昔の事になります。かく当社の御事歴は頗る古い爲に勧請の年代についても、古來伝説が二三になつてはゐますが、要するに當社は垂仁天皇23年4月(紀元654年今より1930余年以前)の創建で、はじめは賀茂群鎌倉峯(今の加西郡多賀野村河内の奥にある普光寺山一名鎌倉山)に御鎭座せられてゐましたが、元正天皇の養老6年3月(紀元1382年今より1200余年以前)に針間鴨國(今の加東加西多可三郡に当る)の國造の苗裔で、涌羅野原の耆宿たる阿部野三良太夫といふ老翁に御神託があつて、現在の社地へ御遷座遊ばされたのだといひます。此の御遷御の事については当國の古書である峯相記の記事や、末社先宮の御祭神、及び社町野村字小部野の三良大夫の祠、福田村福吉の三良太夫古墳、社町西垂水の立明明神祠など、証左になるベき遺蹟が幾多今に残つて居ります。又奉遷しました當社地は、当國最古の地理書たる播磨風土記に所謂塩野(塩水涌出の地)並に小目野(応神天皇御巡行の際に無小目哉と勅せられる地)の地域内に属する一帯の平原の中にて、往昔涌羅野又は廣野といって、松樹の欝蒼と繁茂した小高い神林であつたといひます。 斯くて當社の明神は、最初は小目野里・起勢里(共に風土記に所載)両里の氏神とし、往時阿部氏・巨勢氏・穂積氏等の氏族に敬事せられ給ふたのであつたが、共後氏族制度癈れ、数度の変遷を重ねて、遂に荘園勃興時代以後は、福田庄の大産土神となられました。 養和年間の古記録であると想はるゝ播磨國鎭守大小明神社記(國司の庁に備付けられた官社名簿で國内の官社を太神と小社とに区分してある記録)に、本郡中で當社だけを特に太神の部に掲げてあるのを見ると、源平時代既に當佐保神社が郡内で、第一位の大社であつた事實がわかります。社記には「感応乃験嚴也、民俗乃尊敬他乃社爾異奈利因茲、終爾産紳與奉称処地、百除箇邑仁及」と書いてあります、氏子広汎非常に盛大なもので有つたらしい。 天台の古刹御嶽山清水寺が、一山の鎭守として特に當社を勧請した理由も、蓋し當社に前述のやうな権威があつた爲であらうと想はれます。又磯貝舟也の日本賀濃子・菊本賀保の國花万葉記等には、當社の事を単に明神と書き、寺島良安の和漢三才図曾の地図や、田原相常の播磨巡覧記には惣社と記してゐる、随分有名の神社であつた、ことは、これでもわかります。 承元四年正月の清水寺古文書に佐保社は「國中有験之鎮守、利生无二之神冥也、垂跡年旧、霊験日新、依之或國衙或御庄、云神田云講田、旁有奉免」ご書いてあるのを見ますと、當社には中古神領地も夥しく有つたものらしいのであります。 順徳天皇の建保6年3月に、特に朝廷から勅使(正五位上清原頼尚)が差遣せられて、當社明神に正一位の神階を授けられ又鎌倉将軍家(源頼家公時代・尼将軍政子君)は崇敬のあまり、當社の本殿を再興し、瑞垣を造営し、四方内外に檜木造の鳥居(八基)を建立せられました。其旧跡は今尚ほ地名に残り、口碑に伝へられてゐます。(内外八基の鳥居といふのは本社の四方に於て八町の距離と一里の距離とに建てられたので、其遺跡地は内の鳥居は▲東は社町社の東野▲西は社町鳥居村▲南は社町松尾の宝塚▲北は社町上中の釜屋敷亀の井戸の邊で、又外の鳥居は▲東は依藤野の折石▲西は加西郡多賀野村釜ケ原の黒石▲南は福田村久保木の石のとう烏屋塚▲北は加茂村曽我の四つ石の邊であつたといふ) 永正年間の奥書のある清瀧宮勧請神名帳(塙保己一の続群書類従に輯録してある古記録)に、諸國の名社大社と其に當社が載つて居るこっとも誠に尊く愉快におもはれます。 斯く盛大な神社でありましたが、時代の推移に伴ひ又衰頽の憂き目を見るの止むなきに至りました、即ち足利の末期に室町幕府の政令天下に行はれず、群雄諸方に割拠して互に爭奪を事とし、世は所謂戦國騒乱の時代となりました爲めに、社領の如きはいつしか押領せられ又は没収せられて遂に悉く之を失ふに至り、氏子の分離決裂も此の間に於て亦屡々行はれたのであります。殊に残念なのは天文16年2月6日回禄の災に罹りまして、神殿宝物其他悉く烏有に帰したことであります。荒癈十有除年の後永禄7年に至つて稍くにして、新殿を再興し得ましたが、昔日の如き社観は途に望むことが出來なくなつたといひます。 其後慶長5年2月姫路城主池田輝政が当社を祈願所として神領を寄附せられ、続いて徳川將軍家から朱印地社領十石を賜ふて、明治維新に及んだのであります其後明治6年11月郷社に定められ、次で仝14年12月縣社に列せられ、仝44年3月に至り神饌幣帛料供進神社に指定せられました。現在の氏子区域・建設物並に祭日等は左の通りであります ◎御祭日 春祭 4月16日 (湯立神事) 秋祭 10月第一土曜 例祭秋大祭 10月16日 ◎建造物 本殿 桁六間梁四間半 幣殿 桁二間梁三間半 拝殿 桁八間梁四間 楼門 桁三間半梁一間五尺 舞殿・神輿殿・宝藏・鐘楼・手水舎・納所・倉庫・便所等 ◎境内末社 先宮 (祭紳 猿田彦紳・三良太夫) 諏訪神社(祭神健御名方命) 八幡神社 (祭神誉田別命) 恵美須神社(祭神 事代主命) 金刀比羅神社 秋葉神社相殿 (祭紳大物主神・火酢芹命) 稻荷神社 (祭神倉稲魂命) 天満神社(祭神 管原道眞公) 随神門神社(祭神 豊岩間戸命・櫛岩間戸命) 愛宕祠 (祭神火軻具突知命) 神明祠(祭神大日霊女貴命) 秋葉祠(祭神 火軻具突知命) 神崎壽景謹誌 由緒書 |
佐保神社 佐保神社由緒 当神社は、第11代垂仁天皇の御代に創建され、延喜式にも所載の古社であります。初め坂合神社と呼ばれておりましたが、いつの頃からか佐保神社ど称されるようにななりました。鎌倉時代には、朝廷や幕府戸の崇敬を集め隆昌を誇り八丁四方に、内の鳥居、一里四方に外の烏居を造営し、その中の一基(酉の内の烏居」は、規在でも社町鳥居地区に地名となって残っています。 室町期に入り、度々の騒乱により一時荒廃いたしましたが、江戸時代に到って姫路城主池田輝政公の祈願所として社領十石を寄せられ、さらに幕府より御朱印社領十石を賜るなど、ようやく復興いたしました。 また明治時代になり、官国幣社に次ぐ近郷唯一の県社の社格を付与されました。なお社町の名は、往古より「佐保社村」と呼ば、当神社の門前町として発展してきたことに由来し、北播磨の雄として、栄えてまいりました。 現在の本殿は延享4年(1747年)に再建されたもので、三間社流造正面千鳥破風・軒唐破風付銅板葺で、幣殿・拝殿・瑞神門とともに、華麗な彫刻で飾られております。 御祭神は 東殿(向かって右)天照大神 中殿(中央)天児屋根命 西殿 (向かって左)大己貴命 の三神であります。 この他境内神社には、恵比須神社・諏訪神社・八幡神社・神明神社・愛宕神・金比羅宮・稲荷神社・先宮社・天神社などがあります。 社頭掲示板 |
佐保神社 垂仁天皇23年(紀元前76)の創建と伝えられていますが、この当時は加西の鎌倉峰に鎮座されていました。後、奈良時代の初め養老6年(722)に神託を受けた阿倍野三郎太夫という翁に神託あり、現在の場所にお遷し申し上げたとのことでです。 とりわけ鎌倉時代には尼将軍として有名な北条政子が当社を崇敬し、本殿の再建と四方内外に檜木造の鳥居八基を建立させていることからも、その様子がうかがえます。 なお、当時のまま現存する鳥居はありませんが、西の内の鳥居は石造りに変わり、現在も社町鳥居地区に残っており、もちろん「鳥居」という地名はこのことに由来します。 しかし、戦国時代の争乱により社領は荒廃し天文16年(1547)には火災に遭い神殿すべてが焼失しました。その後、永禄7年(1564)に神殿を再建しましたが、昔日の壮観はついに望むことができなくなったといわれています。 なお、現在の建物は延享4年(1747)に再建されたものです。 また江戸時代には、代々将軍家より朱印状をいただき社領十石を賜り、明治維新を経て明治14年(1881)県社に指定されました。 兵庫県神社庁 |