元正朝の養老年間に佐保明神を従えて上鴨西條の鎌倉峰に天降り、山の酒人が神託により創祀し酒見の神と称えたという。 当初の鎮座地は北條町黒駒と呼ばれている向山で、今もこの向山の麓の和泉谷に社殿の阯があるという。 大阪の住吉大社に伝わる「住吉大社神代記」〔天平3年(731年)〕に記された住吉大神の宮九箇処の一社である。 境内中央には勅使塚が遺っており、現在は「鶏合わせ」や「龍王舞」など神事の場として使われている。 当社の前の坂合家の裏庭には坂合神社という小祠があつて、土地の人はこの社が当社より古い神社であるという口碑を今に伝えている。 |
住吉神社 住吉神社創建にまつわる歴史を紐解くには神社に伝わる「由緒記」がその謎を解く鍵になります。しかしながら、当社に残る「由緒記」は幾多の戦乱や度重なる火災等により当社が太古の北条の地に鎮座された年より600〜900年後に書き記されたものと考えられており、様々な伝説が錯綜しその本質的な真相は明らかにされていません。本項ではそれらの事実を前提とした上で、最も有力に伝えられている伝説を紹介させて頂きます。 時代は養老元年(717)。加茂領(現在の加西市周辺)で最も険しく、神聖な山として崇められる「鎌倉峰」(河内町)を年老いた老夫婦とそれに仕える五人の従者が訪れたそうです。 後の世に「神々の故郷」と称された鎌倉峰よりの展望に感嘆した一行はその南西に広がる三重里(現在の北条町)に立ち寄り、当地の豪族である山部氏(山氏)に宿の貸借を申し出ました。当主の山ノ酒人(やまのさかひと)は不審に思いながらも一行の品行に敬意を表し要望を受け入れたと記されています。 ところが一昼夜にして田園に植えた稲苗を大松に化かすという奇跡に驚き、この地の人々と相談し共同の祖神として松林の中に神殿を造り祀ったのが始まりとされています。 創建当初は、「酒見大明神」と呼ばれ黒駒村南の向山に祀られていましたが養老年間の3月3日に現在の地に移され、その後、毎年3月3日に祭礼が行われるようになりました。 祭礼当日は神社から黒駒村へ使者が使わされ、その使いが七度繰り返され八度目の際に、黒駒から村人や村役人が出立ち、途中で両者が出会い、やがて全員が神社に戻り、祭礼を執り行ったという説があります。これを【七度半の使】といい、現在はその形を変え「鶏合わせ」神事の際に行われています。 社殿は戦乱により幾多も焼失し、慶長年間には社頭は荒廃し、祭りも寂れていたようです。 これを知った姫路城主の池田輝政が毎年30石を寄進するとともに四人の重臣を遣わせ再興を支援したと記録されています。嘉永3年(1850年)に社殿が改築され、同4年に竣工し、現在の本社三殿として残ります。明治になり縣社に指定される際、酒見大明神から住吉神社と呼ばれるようになったそうです。 住吉神社は元々は現在の黒駒町南の「向山」(現在の寺山)中腹に鎮座されていたものと伝えられます。 また古い文献には市村の「万鐙山」頂上より見渡せる範囲を酒見明神の氏子とした伝説も残ります。 現在の西南町は「向山」の死界に位置したために氏子組織に加えられなかったとも考えられています。 http://www.geocities.jp/qjfqf330/souken.html |
住吉神社 北条節句祭 開催日 毎年4月第1土・日曜日 場所 北条町住吉神社 北条節句祭は、播磨三宮(さんのみや)である住吉(すみよし)神社とこの町並みを舞台に800年以上の歴史を誇る播州三大祭のひとつに数えられています。 当日は東郷・西郷の神輿(みこし)と、氏子(うじこ)町から繰り出す屋台14台が町内を巡行(じゆんこう)し、勇壮(ゆうそう)な宮入を行います。 境内並びに御旅所では『龍王舞(りょうおうまい)』〈県指定民俗文化財)が舞われ、神事の終わりには『鶏合せ』(市指定民俗文化財)が奉納されます。 『龍主舞』は、中世の姿をとどめた鼻高面を付け、紙製の鳥兜(かぶと)を筒袖の上衣に紋を染め赤袴(あかばかま)をしめた舞子が鉾(ほこ)を持ち、笛・太鼓にあわせ舞います。 所作は東郷(ひがしごう)・西郷(にしごう)で特徴があり、東郷が雄の舞で荒々しく、西郷は雌の舞で優雅に舞います。 また、『鶏合せ』は、古式ゆかしい豊作祈願(ほうさくきがん)の行事で、保安(ほうあん)3(1122)年から始められたといわれます。 東郷・西郷の執行人がそれぞれの雄鶏を高く差し上げて近寄せると、鶏は蹴りあいをしようとしでにらみ合います。そのままの態勢を崩さない方を勝ちとします。 2011年3月 加西市教育委員会 社頭掲示板 |
住吉神社 養老元年(717)、山の酒人なるもの、摂津国の住吉大神の神託をかがふり、本社を創設する。神功皇后摂津住吉社領とし、附近寄進。平安朝、一条天皇の御宇正一位を寄せられ、当国三宮として、浅野家の崇敬あり。 鎌倉末期、北条別宮とし、摂津住吉神社の所管となる。建永2年(1207)、社殿焼失。後再建す。 数度の兵乱にて社殿荒廃するも、天正年間(1573〜1591)、姫路城主池田輝政、これを嘆き、年々米三十石寄進。後、藩主本多美濃守は年々米六十石を寄進。 慶安元年(1648)徳川家光より累代の将軍より崇敬あり。 嘉永3年(1850)、社殿改築。 明治7年(1874)、郷社に列せられる。 明治14年(1881)、県社に列せられる。 明治42年(1909)、大歳神社・八幡神社を合祀。 大正5年(1916)、本殿弊殿を改築。 兵庫県神社庁 |