石部神社
いそべじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石部神社 播磨国 賀茂郡鎮座

   【現社名】石部神社
   【住所】兵庫県加西市上野町69-2
       北緯34度57分8秒、東経134度51分48秒
   【祭神】市杵島姫命 田心姫命 湍津姫命
   【例祭】10月9-10日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】養老3年3月芸州宮島より勧請
       慶安2年(1649)8月徳川家光社領朱印五石を寄進
       寛延年間の火災で焼失
       明治6年11月郷社
       明治45年3月神饌幤帛料供進神社指定
       昭和21年10月20日附で県社昇格の認知

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿春日造檜皮葺
       幣殿・拝殿・手水舎、社務所

   【境内社】

神社裏山(宮山(みやま))に皇塚と呼ばれる古墳があり、埋葬者を神聖視して創立の話にむすびつけたと思われる。これは古墳前期のものとされており、山頂円墳であるので弥生時代には祭祀が行なわれていたかも知れない。


由緒

当神社の創立は、往昔人皇44代元正天皇の御宇養老3年芸州(広島県)宮島より勧請したもので、その由来は養老元年2月元正天皇の皇女勅を奉じて宮島の厳島神社へ参詣され、三・七日21夜の祈祷を終えられ海路ご帰還の砌り風波強くご遭難甚しく播州室津に上陸せられ、この地に至りご静養せられしも遂に崩御遊ばされたるを以って、里人等は三津山の山頂に御葬り奉り同山腹の地に神社を創建し、皇女崩御の際「身が守護神は伊知岐島姫命なり、これを迎えて此の地の産土神と崇め祀れ」とご遺言遊ばされたるにより、そのご遺言を体し宮島のご分霊を勧請し産土神として奉斎し、そのご神徳を仰ぎ奉れるものなりと伝えられ、神社創建の往時には神式に畏くも勅使のご参向ありたる尊厳なる由緒深き神社なりとせられ、醍醐天皇の延喜年間に「式内社」として神名帳にも所載せられ慶安2年8月徳川将軍家光社領朱印五石を寄進し、境内山林竹木の諸役を免除され爾来将軍家の崇敬厚く維新まで続いたが明治元年5月還納した。又鎮座地の在田郷は播州赤穂浅野家の領地であったため、浅野家の崇敬亦格別であった趣で正保年間浅野長直公巡歴の際、本神社及び神護寺の為に特に添挙状を書かれ将軍家へ差し出される等の事あり、現在拝殿正面に揚出されている黒馬の額は浅野家の献納と伝えられている。
明治7年2月郷社に加列せられ、同45年3月神饌幤帛料供進神社に指定さる。昭和21年10月兵庫県知事より「県社に当然列格せらるべきものたりしことを認む」との指令を受ける。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



石部神社

祭神 市杵島姫命・田心姫命・湍津媛命
由緒 奈良朝元正天皇の養老元年 皇女勅を奉じて安芸国宮島に御参詣 護衛の近士70余名 他に宮人多数を従えて宮島に御到着 三七夜の御祈祷も了えられ海路帰途につかれたが、折悪しく暴風海波甚だ荒く航行至難、皇女のお疲れ又一方ならず。ために播州室津の湊に上陸された。此処に三日間御静養の後陸路をとって播州賀茂郡船岡の辺を啓御されたが、その頃皇女の御疲労降った備重く、里人に仮殿を造らせて療養に努められたが、御容体安からず遂に崩御せられる。
この由上聞に達し勅使の御下向あり三津山(宮山)の山頂に埋葬せられた。今も山頂に古墳があり、之を皇塚という。
皇女崩御の際の御遺言により、宮島の厳島神社より御祭神を勧請してこの地に神社を創建し奉斎された。
石部神社鎮座記より
沿革 本神社は養老3年3月の創建にして、当時神式には、畏くも勅使の御参向があり醍醐天皇の延喜年間式内社として神名帳にも記載され、又徳川将軍家の崇敬厚く、慶安2年徳川家光社領朱印五石を寄進し境内山林の諸役を免ぜられた。
明治7年2月郷社に列し、昭和21年10月兵庫県知事より「県社に当然列格せらるべきものたりしことを認む」との県措令を受けている。
昭和45年10月吉日

社頭掲示板



石部~社の門杉

兵庫縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第九輯
昭和 七年 三月三十日 発行
石部~社の門杉   
所在  加西郡在田村上野字池ノ下 式内郷社 石部~社境内社頭。
       播丹線北条驛の北方約六粁にある。
現状 石部~社の鳥居を潜り馬場を通り~苑の上り口に至ると石燈の上り口の兩側に四米を隔てヽ二老杉がある、故に之を門杉と稱してゐる。兩者の大さは左の通りである。
             東方の株      西方の株
    根本周圍      四・六米      四・八米      
    目通周圍      四・三米      四・四米
    高  さ     二九・五米     三〇・〇米
 東方の株は東方北方及南方に枝茂り西方は西に大杉あるを以て枝の茂りが悪い。
由來 當~社は人皇第四十四代元正天皇の養老三年に鎭座の式内社である。傳説に依れば鎭座の直後此杉を記念として植栽せしものであるといふが記録の徴すべきものがない、此傳説を眞なりとすると約千二百年を經過せる老木である。(松本委員、山鳥委員)

http://www.ne.jp/asahi/nature/teramoto/isibejinnjya.htm



石部~社

 養老3年(719)、宮島より勧請。養老元年(717)元正天皇の皇女勅を奉じて宮島の厳島神社へ参詣され、37日21夜の祈祷を終えられ海路ご帰還の砌り風波強くご遭難甚しく播州室津に上陸。この地に至りご静養せられしも遂に崩御遊ばされたるを以って、里人等は三津山の山頂に御葬り奉り同山腹の地に神社を創建し、皇女崩御の際「身が守護神は伊知岐島姫命なり、これを迎えて此の地の産土神と崇め祀れ」とご遺言遊ばされたるにより、そのご遺言を体し宮島のご分霊を勧請し産土神として奉斎し、そのご神徳を仰ぎ奉れるものと伝えられる。
 「式内社」として神名帳にも所載せられ慶安2年徳川将軍家光社領朱印5石を寄進し、境内山林竹木の諸役を免除され爾来将軍家の崇敬厚く、維新まで続いたが、明治元年(1868)還納。
 鎮座地の在田郷は播州赤穂浅野家の領地であったため、浅野家の崇敬亦格別であった趣で、正保年間(1645〜1648)浅野長直公巡歴の際、本神社及び神護寺の為に特に添挙状を書かれ将軍家へ差し出される等の事あり、現在拝殿正面に揚出されている黒馬の額は浅野家の献納と伝えられる。
 明治7年(1874)、郷社に列せられる。

兵庫県神社庁



石部~社

市指定文化財石部神社門杉
石部神社門杉は境内の石段登り口に立つ2本の大杉です。この大杉は東西とも、根回り約5m、高さ約30mの大木で、その位置から門杉と呼ばれています。
石部神社は、719年(養老3年)鎮座と伝えられ、鎮座直後に記念樹としてこの杉を植えたという伝承があります。
市指定文化財皇塚古墳
皇塚古墳は、石部神社の背後にそびえる撮高149mの丘陵頂上部に造られた古墳時代後期(6世紀前半)の円墳です。墳丘はその形をよく留めており、古墳の規模は径約20m高さ約2mです。古墳のある頂上からは周辺地域を一望できることから、被葬者はこの地域一帯を統治した人物などの可能性が考えられます。
加西市教育委員会

社頭掲示板



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