3.5km北にある奥宮の鎮座する鎌倉山(453m)を御神体山として拝してきたが、その大神様を当地の里にお迎えし、830年に近江国日吉大社から勧請された。 |
由緒 日吉神社の起源であるが「神社明細帳」には由緒さだかならずとある。しかし、これは鎌倉の神を現在の所に勧請した年代が定かでないと言う意味で「播磨鑑」には淳和天皇の天長年間に比叡山坂本山王権現を勧請したとあるがそれ以前の神亀2年であったことが判明している。「播磨鑑」に出て来る崇健神社(在所不知とある。)が、当社の社名であったと思える。神代の昔から農耕時代まで、農耕の技術の進歩の先駆であるこの里の名が延喜の時代に出て来ない不思議。この後の名称から見ても間違いない事実であろう。社名も、「播磨鑑」に出て来る崇健神社(在所不知)とあるのが当社であると思われる。その後、高須神社と呼び、次に高の宮、総社大明神、山王権現、富家の大宮、日吉神社と変わって来たのである。 地名も高廻の里から高庄となり、次に富家の庄となる。高庄及び高の宮より明治以降、多加野村の村名の起源となる。 富家の庄の名の起りは、当社の崇敬者及び氏子の中より富家が絶える事がないとの託宣があったところより起こる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
日吉神社 由緒: 太古の昔、人々は山・木・岩等、自然の「もの」の中に「神」を見出していた。当社においても、例外ではなく現在奥宮の存する鎌倉山を御神体山とし拝した。その大神様を里にお迎えし、約1300年前その地に近江国日吉社(現在の滋賀県大津市日吉大社)より御分霊をいただいたのが、現在の当社である。 神の使い動物: 日吉神社の神使は「猿」です。神猿と書いて「まさる」と呼びます。「まさる」は「魔が去る」または「勝る」の意で魔よけ等の御神徳を頂いております。本殿にも「眼猿(みざる)」「口猿(いわざる)」「耳猿(きかざる)」の珍しい彫刻がほどこされています。 御神徳: 五穀豊穣を始め国家鎮護・開運・家内安全・鬼門除け等が主であるが、当社大祭がお産の場を表すところから安産の神として知られる。江戸時代には遠く能登半島から安産祈願に参られ、無事男児出産のお礼として輪島塗の大盃を奉納された。これは今も祭事には欠かせないものとして使用している。 公式HP |