青玉神社
あおたまじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】天目一神社 播磨国 多可郡鎮座

   【現社名】青玉神社
   【住所】兵庫県多可郡多可町加美区鳥羽735
       北緯35度11分23秒,東経134度55分44秒
   【祭神】天戸間見命 (配祀)大歳御祖命
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年不詳
       明応2年(1493)、社殿焼失
       宝暦11年(1761)、社殿造営
       安政3年(1856)、社殿焼失。再度再建
       明治7年(1874)、村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

三国岳の頂上に鎮座し、後に現在地の村里へ遷座した「式内社天目一神社(あめのまひとつじんじゃ)」の祭場(まつりば)が「とりば」となり、「鳥羽」の文字が当てられ「とりま」と呼ばれるようになったといわれている。後に青玉神社と改称された。


青玉神社

創立年不詳。
 初め、三国嶽の山頂に鎮座。のちに山麓に選座す。
 明応2年(1493)、社殿焼失。
 宝暦11年(1761)、社殿造営。
 安政3年(1856)、社殿焼失。再度再建。
 明治7年(1874)、村社に列せられる。

兵庫県神社庁



青玉神社

当社は播磨、丹波、但馬の境、三国岳に鍛冶業のご神徳をもって奉斎されていた。
やがて、南の山麓なるこの地に遷座せられ、土地を拓き、農を進め、加古川流域の農業の繁栄をもたらせた。
かつては加美町北部の総氏神と崇められた。奇しく妙なるご加護は、家運隆昌、家内安全、農耕などの殖産興業の祖神と広く知れ亘り、近隣はもとより道行く遠近の人々は交通安全をはじめ、所願成就を祈る参詣者が多数あります。昔、狩人が身の安全を願う湯立の神事は、今も例年7月15日前後に行い、多くの参拝者が忌湯を浴びて無病息災を祈願している。勧請年月日は不詳なるも、明応2年、安政3年の二度も火災に罹り、現今の社殿は万延元年の造営によるものです。

社頭掲示板



青玉神社 社史概要

弥生時代、但馬の豪族天日鉾(天日槍)尊が、古代国造りの要衝……政治と鉱物資源開発のため、但馬・丹波・播磨の国境三国山頂の『踊り場』に祖神の天目一箇神を祀り、行政の証とした。千八百年以前(垂仁3年)二世紀頃と推定される。踊り場は、神々の『まほろば』であり、後に播磨・丹波の民がこの広場に集まり、踊りによって祖先の霊と一体になった。護摩焚きも行われた。
『御神霊』は奈良の都造営(710年)ごろ、奥播磨賀眉の里の各集落の主神(氏神)としてオオタマ=青玉の森に祀られた。南の庄の大歳の神(オオトシタマ)も祀られた。御神木の『夫婦杉』(昭和45年天然記念物指定)が千年余りの大昔を偲ばせる。『青玉さまは、三国峠を越えてこられた出雲の神様である』という伝承がある。事実、弥生文化(稲・銅・製鉄・紙などの技術)は三国峠を越えて奥播磨に伝わった。青玉神社は『鍛冶の神様』の全国的な元宮である。(室町時代、ご神体は他の各集落の神社に併神された)。
『瑞神門』は鎌倉様式で、1250年代に建てられたと推定される(現礎石址)。
加美区豊部集落の南旧道の地名『桜』に一の鳥居が建てられた。
社格は927年(延長5年)に定められた延喜式社である(正一位青玉大明神)。
神社は応仁の乱の初期、1494年(明応2年2月)、原因不明で焼失した。
神社は再建され、戦国時代、江戸時代と繁栄し、たたら技術や紙の神・鍛冶の神様として多くの人々の信仰・参詣でにぎわった。
1856(安政3年9月17日)再び焼失した。尊王攘夷の騒がしい時代であった。多くの氏子の莫大な浄財で再建されたのが、現在のお社である。お社は再建毎に拡張され、立派になった。天保年間の神社拡張時、神殿背後から出土した球壺二個(現当社の小宮に宝蔵)は、平安藤原期のものであり、神仏習合としては最古のものである。
858〜877年(貞観年間)宮中で行われた『湯立神楽』が原型のまま残されているといわれる司祭の行事『湯立て祭り』は、中世以降現在に引き継がれ、毎年七月中旬、盛大に行われる。巫女が舞い、熊笹の葉で参拝者に湯をふり注ぐ。無病息災を願うこの信じは壮麗で、総てが神様と一体になれる時である。
霊樹『乳の木』に婦人が甘酒をお供えして祈ると、乳の出が良くなるとの言い伝えがある。
2007年吉日
文責・奉納 青玉神社氏子 龍岳

社頭掲示板



青玉神社

青玉さん
この神社の西北に聳える三国獄の山頂に、播磨踊場という広い平坦な所があり、今も御手洗池という小池が残っている。そこに青玉さんが鎮座まし、斎祠されていたという。
青玉神社がこの地に創建された年代は定かではない。
境内の六本の多すぎは樹齢七・八百年以上かといわれ、又御神木(夫婦杉)は千年杉ともいわれている。これらの巨木から見て、神社が建てられたのは相当昔のことである。
休み石の謂われ
その昔、井ノ岡(猪の岡)という狩人が(のちに稲岡代明神として祀られている)、三国山に狩りに行った帰り道、背中が急に重くなり、ここ迄やっと辿りつき、動けなくなった。
この石に腰かけ、しばらく休んだ後、帰ろうと立ち上がれば背中が急に軽くなった。急いで村に帰り、この事を村の人に話した。村の長老がそれはきっと神様やと言った。それから村の人は口々に青玉さまを背負ってきたのだ。
ここに神様を祀れということだといって、その後この地を拓き清め青玉神社として祀ったそうである。

社頭掲示板




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