天目一神社
あめのまひとつじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】天目一神社 播磨国 多可郡鎮座

   【現社名】天目一神社
   【住所】兵庫県西脇市大木町648
       北緯35度1分9秒、東経134度57分10秒
   【祭神】天目一箇命 (合祀)大雀命 日本武命 天穗日命 大年神
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】源平の争乱で社殿焼失
       天正8年(1580)豊臣秀吉中国攻めで焼失
       明治30年4月村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿切妻造檜皮葺
       拝殿

   【境内社】

当地方に居住する鍛冶工集団が奉齋したと考えられる。天目一命は作金者であり、雑(くさ)ぐさの刀斧や鉄鐸を作つた。
天目一箇尊命は鍛冶の元祖、鞴(ふいご)の祖神として知られ、当社付近から熔鉄・熔銅を出土し、古代祭器の破片を出土したと伝えられている。
明治維新になり、式内比定が盛んになって、所在不明となった「天目一神社」の位置が大木町に推定された。そこで当時は惣堂天王社があった当地が式内旧地とされ、復興が図られた。明治30年(1897年)4月、村社に列した。


天目一神社

日野地区は、加古川の支流杉原川が作った沖積平野と段丘状に拓けた地域です。この地に人々が生活し始めたのは古く、縄文時代後期の土器が発見されています。弥生時代になって稲作が伝わると、さらに開拓は進み、多くの集落跡が見つかっています。奈良時代には、託賀郡都麻里に含まれましたが、平安時代の中頃には、杉原川東岸地域は資母郷、西岸地域は那珂郷と呼ばれるようになりました。このころの開拓の様子を示す、条理という一辺109mの正方形の土地区画の跡が、道路や水路に残されています。平安時代後期から室町時代にかけては、東岸地域は這田荘、西岸地域は安田荘という荘園に含まれていたらしいのですが、戦国時代には富田荘という一つの荘園になり、それぞれ富田郷、野中郷と呼ばれ野間城(八千代町)に本拠をおく在田氏の支配下にありました。その後、豊臣氏の蔵入り地を経て江戸時代には各村ごとに分割支配が行われましたが、大木、野中、市原、前島などの村々は姫路藩領、幕府領、古河藩領と移り変わりました。明治時代になって廃藩置県が行われ、明治9年にほぼ、現在の兵庫県になりました。日野という地名は、明治22年の町村制の施行により10か村が合併したときに、鎮守の春日神社の日と平野神社の野をとって日野と名づけたものです。大木町に鎮座する天目一神社の祭神は天目一命で天久斯比止命ともいいます。神話によれば、天照大神が弟の素盞男命の乱暴に怒って天岩戸に隠れたとき、岩戸を開くための祭りに使用する刃物や鉄鈴を作ったのが天目一命でした。それ以来、鍛冶の神、ふいごの神として崇拝されるようになったと云われています。また、天目一命は、奈良時代の「播磨国風土記」の託賀郡の条にも登場し、多珂地方の地が古代から鍛冶に関する高度な技術を持っていたことも考えられるのです。そして、平安時代の927年にできた「延喜式」という書物には「延喜式内社」と呼ぶ、全国で重要とされた神社が記載されていますが、その中の、多可6座の一つにこの天目一神社が含まれているのです。明治維新の神仏分離令により、多可郡内でも延喜式内社への関心が高まり、特に所在地が不明であった天目一神社については、多可郡内の数カ村の神社が名乗りを上げました。ところが、著名な学者が式内社天目一神社の所在地を大木町に推定し、当時の多可神職会もこの説を支持するに至り、地元大木町でも当時惣堂天王社のあったこの地を式内社天目一神社の跡地と定めて、その復興を計画したのです。社殿は地元を初め、播州や泉州の金物業者の援助を得て大正8年に着工、大正12年に竣工し、鎮守である平野神社も平野山東山麓から移して合祀しました。竣工した本殿は、神明造りと呼ばれる特殊な形式を採用し、しかも近年では例を見ないほど大きく立派なものです。また、鳥居も本殿にあわせて神明鳥居が作られています。竣工以来、天目一神社は復興された式内社として有名になり、近在の鍛冶職人、金属加工職人達の信仰を集めました。旧暦11月8日(現在は12月第1日曜日)に行われる「ふいご祭り」には播磨をはじめ遠く丹波、但馬、美作、和泉からも参詣者があり、強風が吹くほど、ふいごの風が強くなると喜ばれました。戦後は金属工業などの機械化により、参詣者は減りましたが、現在でも熱心な信者と地元大木町の努力によって、盛大にふいご祭が行われています。

社頭掲示板



天目一神社

創立年不詳。延喜式の制小社に列し、天正8年(1580)、別所氏の兵火にあい、記録類失う。
 明治30年(1897)、村社に列せられる。

兵庫県神社庁



天目一神社について

日野地区は、加古川の支流杉原川が作った沖積平野と段丘上に拓けた地域です。この地に人々が生活しはじめたのは古く、縄文時代後期(約4,000年前)の土器が発見されています。弥生時代(約2,300年前)になって稲作が伝わると、さらに開拓は進み、多くの集落跡が見つかっています。奈良時代(8世紀)には、託賀郡都麻里に含まれましたが、平安時代の中頃(10世紀)には、杉原川東岸地域は資母郷、西岸地域は那珂郷と呼ばれるようになりました。このころの開拓の様子を示す、条里という一辺109mの正方形の土地区画跡が道路や水路に残されています。
平安時代後期から室町時代(12〜14世紀)にかけては、東岸地域は這田荘、西岸地域は安田荘という荘園に含まれていたらしいのですが、戦国時代(15〜16世紀)には富田荘というひとつの荘園になり、それぞれ富田郷、野中郷と呼ばれ、野間城(八千代町)に本拠を置く在田氏の支配かにありました。その後、豊臣氏の蔵入地を経て江戸時代には各村ごとに分割支配が行われましたが、大木、野中、市原、前島などの村々は姫路藩領、幕府領、古河藩領と移り変わりました。
明治時代になって廃藩置県が行われ、明治9年にほぼ現在の兵庫県になりました。日野という地名は、明治22年の野村制の施行により10ヵ村が合弁した時に、鎮守の春日神社の日と平野神社の野をとって日野と名づけたものです。
大木町に鎮座する天目一神社の祭神は天目一命で天久斯比止都命ともいいます。神話によれば、天照大神が弟の素盞男命の乱暴に怒って天岩戸に隠れた時、岩戸を開くための祭りに使用する刃物や鉄鈴を作ったのが天目一命でした。それ以来、鍛冶の神、ふいごの神として崇拝されるようになったといわれています。また、天目一命は、奈良時代の『播磨国風土記』の託賀郡の条にも登場し、多可郡の地が古代から鍛冶に関する高度な技術をもっていたことも考えられるのです。して、平安時代の927年にできた『延喜式』という書物には「延喜式内社」と呼ぶ、全国で重要とされた神社が記載されていますが、その中の多可六座のひとつにこの天目一神社が含まれているのです。
明治維新の神仏分離令により、多可都内でも延喜式内社への関心が高まり、特に所在地が不明であった天目一神社については、多可郡内の数ヵ村の神社が名のりを上げました。ところが、著名な学者が式内社天目一神社の所在地を大木町に推定し、当時の多可神職会もこの説を支持するにいたり、地元大木町でも当時惣堂天王社のあったこの地を式内社天目一神社の跡地と定めて、その復興を計画したのです。
社殿は地元をはじめ、播州や泉州の金物業者の援助を得て、大正8年に着工、大正12年に竣工し、鎮守である平野神社も平野山東山麓から移して合祀しました。竣工した本殿は神明造とよばれる特殊な形式を採用し、しかも近在では例を見ないほど大きく立派なものです。また、鳥居も本殿にあわせて神明鳥居が作られています。
 竣工以来、天目一神社は復興された式内社として有名になり、近在の鍛冶職人、金属加工職人たちの信仰を集めました。(旧暦)11月8日(現在は(新暦)12月第1日曜日)に行われる「ふいご祭り」には播磨をはじめ遠く丹波、但馬、美作、和泉からも参詣者があり、強風が吹くほど、ふいごの風が強くなると喜ばれました。
戦後は金属工業などの機械化により、参詣者は減りましたが、現在でも熱心な信者と地元大木町の努力によって、盛大にふいご祭りが行われています。

播鍛 http://www.banka.jp/dedication/index.html



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