社伝によれば、大和から播磨の国衙に赴任した岡本修理大夫が延暦元年(782年)に森林を拓いて社をつくり、 延暦3年、大和穴師の兵主神を勧請したものと言う。 別当寺の明鏡山神通寺は明治初年に、廃寺となつたが、現在の社務所の位置に社坊があつたという。 |
由緒 「兵主神社勧請に関する旧記」には、天児屋根命に始まる藤原氏の系譜がまず記され、鎌足・不比等房前・真楯・内麿・「大和守長岡」(内麿の第六子。嘉祥2年849年没)と史書の上にもなじみ深い人物の世系が示され、長岡の子の「大和守恒岡」にいたる。 それに続いて左のように記している(原漢文) 「従五位下大和掾恒岡は、大和国の南都の岡本に住す。臣知恒は恒岡の次男にして、ここに宝亀5年正月10日始めて播磨掾を拝す。同年3月播磨国多可郡大志野の岡城に赴く。延暦元年正月、城の南に森四町余を開く。同3年甲子6月14日兵主五社大明神を勧請せり延暦3年10月岡本修理大夫藤原知恒誌す」 岡本修理太夫の子孫とみられる末流は本町、氷上郡氷上町、氷上郡山南町及柏原町に住居せられているようです。 当社は延喜式神名帳に登録された式内社であります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
兵主神社 祭神 大己貴命 八千戈命 葦原醜男 大物主命 清之湯山主三名狭漏彦八島篠命 創建 宝亀5年(774)1月播磨掾を拝した岡本修理太夫は大和国岡本邑より当地に赴任し延暦元年(782)正月当社付近の森地四町余を開き神社の造営いに着手し同3年甲子6月14日兵主神社を勧請す。 氏子 多可郡黒田庄町の内大字岡、喜多、大門、津万井、福地、大伏、及び西脇市蒲江の7大字を氏子地域とす。 その他 延喜式神名帳により延喜5年(905)式内社に指定。明治6年(1873)11月郷社。大正8年12月県社指定され昭和20年終戦と共に社格廃止 昭和58年(1983)3月勧請千二百年祭執行 社頭掲示板 |
兵主神社 「従五位下大和掾恒岡は、大和国の南都の岡本に住す。臣知恒は恒岡の次男にして、ここに宝亀5年(774)正月10日始めて播磨掾を拝す。同年3月播磨国多可郡大志野の岡城に赴く。延暦元年(782)正月、城の南に森四町余を開く。同3年甲子6月14日兵主五社大明神を勧請せり延暦3年10月岡本修理大夫藤原知恒誌す」 岡本修理太夫の子孫とみられる末流は本町、氷上郡氷上町、氷上郡山南町及柏原町に住居せられているようである。 岡本修理太夫藤原知恒 弘仁8年(817)酉7月17日卒ス 茅葺き拝殿(安土桃山時代建立)豊臣秀吉が三木城(別所長治)攻略後、黒田官兵衛に命じ寄進されたと伝えられる。 兵庫県神社庁 |
兵主神社拝殿と黒田官兵衛 北播磨黒田官兵衛生誕地の会 西脇市観光協会 兵主神社拝殿(兵庫県有形文化財)は黒田宮兵衛寄進のお金で建造されたと伝わります。 織田信長の命を受けた羽柴秀吉は中国征伐に向けてこの地に来て播磨一の勢力を誇る三木城主の別所長治を攻めますが、容易に落とすことができず、その攻防は2年近くに及びます。 当地の土豪で福地蟲生城の村上政治は尼子勢の襲撃に敗れ戦死しますが、その遺児村上広直と材上直行は再起を図ろうと秀吉軍に参戦、当地を兵站地として協力をしました。 兵主神社の祭神は大己貴命ですが兵主は中国史記に出てくる軍神、武神でもあることから秀吉は黒田官兵衛に代参させ奉納文と共に灯明田七反を添えて戦勝祈願を行つたと伝わります。 奉納金は拝殿の建設に当てられ、地元材を調達、山出し、乾燥刻みを行い天正19年(1591)8月に柱立、安土桃山時代の建築様式を残す貴重な建築と評価されます。 当時、官兵衛は46歳、すでに隠居をしており、如水と名乗っておりましたが、秀吉は官兵衛の隠居を許さず、朝鮮出兵の拠点城となる肥後国名護屋城(現唐津市)の縄張りの指揮を取ります。 社頭掲示板 |