播磨風土記に記載された三坂峯に降り給われた神々を奉齋された神社で、許曽の社であると伝える。 |
由緒 本社は鎮座の年代未だ詳かでないが延喜の神名帳に播磨國五十座のうち美嚢郡一座御阪社と登載されている神社といわれている。播磨風土記にも延喜式内神社と銘記されている(中略)もと志染の志染中という里に鎮座せられていたが、天正年間、秀吉の中国征伐の金次三木釜山城攻めに兵火にかかり社殿記録一切烏有に帰したので、佃目の里に遷し奉り慶長4年卯月3日更に志染川の上流、淡河川、山田川の落ち合いの清浄な今の地に勧請奉りしという由緒も伝えられている。 また第17代履中天皇が当社に御参拝ありしことも播磨風土記に記録している。 明治6年郷社に列せられ、大正3年神饌幣帛供進社に指定され、志染町の氏神として深く当社を崇敬する。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
御坂神社 延喜式神名帳に「美嚢郡(ミナギノゴオリ)一座御坂神社」とある。その延喜式内神社は当社とされている。 延喜式内神社とは、延喜式の神名帳に登載せられた神社をいうのであって、三木市美嚢郡(吉川町)に唯一座当神社が登載されている。 当神社については、播磨風土記にも「志染の里三坂にます神八戸掛須御諸神は、大物主、葦原志男命の国堅めたまひし以後に天より三坂峯(ミサカミネ)に下り給ひき」とあり、人皇第17代履中(リチュウ)天皇がこの神社にご参拝になったことも播磨風土記に記されている。 以後天正年間、羽柴秀吉が中国討伐の途次、三木の別所長治居城釜山攻めを行い、その際兵火にかかり焼失し、古記録一切烏有に帰したことが記録に残されていたということも、今はその記録を見ることが出来ない。 明治6年郷社に列せられ、大正3年4月神餞幣帛供進指定神社に遇せられて祈年祭、例祭、新嘗祭には郡長又は村長が幣帛供進使にたって随員を伴い、衣冠の装束を着して幣帛(神の供物)を供進したが終戦となり、その制もなくなり、現在宗教法人の護持運営の神社となった。 その昔十七代履中天皇が当神社にご参拝になり、「この川の流れは大変美しい」といわれたことからこの地域を美嚢群(ミナギノゴオリ)というようになり、また御食膳に「しじみ貝」が這いあがったというところから、この地をしじみというようになったと播磨風土記は語っているが、履中天皇の御在位は皇紀1060〜1065、現在より逆算すれば1600年前に鎮座なしなる当神社は、今志染の里の氏神として、また拓けゆく緑ヶ丘町、自由が丘町、青山町の産土神(ウブスナガミ-その町の神)として、鎮守さま(その土地とそこにすむ人の守り神)として神しづまりますのである。 公式HP |
御坂社 創立年不詳。 延喜の神名帳に、播磨国五十座のうち美嚢郡一座御阪社と登載されている。 播磨風土記にも、延喜式内神社と銘記されている(中略)もと志染の志染中という里に鎮座せられていたが、天正年間(1573〜1591)、秀吉の中国征伐の金次三木釜山城攻めに兵火にかかり、社殿記録一切烏有に帰したので、佃目の里に遷し奉り、慶長4年更に志染川の上流、淡河川、山田川の落ち合いの清浄な今の地に勧請奉りし、という由緒も伝えられている。 また第17代履中天皇が当社に御参拝ありしことも、播磨風土記に記録している。 明治6年(1873)、郷社に列せられる。 兵庫県神社庁 |