佐用都比売神社
さよつひめじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】佐用都比売神社 播磨国 佐用郡鎮座

   【現社名】佐用都比売神社
   【住所】兵庫県佐用郡佐用町本位田甲261
       北緯35度1分1秒、東経134度21分56秒
   【祭神】市杵島姫命 (配祀)素盞嗚尊 大国主命
   【例祭】10月30日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創立年代は不詳
       嘉祥2年(850)預官社
       永享年間(1429−41)別所敦範の尊崇を受ける
       天正5年(1591)兵火で焼失
       万治2年(1659)松下石見守拝殿再建
       元禄14年(1691)松平久之丞本殿再興
       明治7年7月郷社
       大正13年2月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】播磨風土記以前よりほぼこの地にあり

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「佐用姫大明神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造檜皮葺
       幣殿・拝殿・神饌所・社務所・絵馬殿

   【境内社】
   【境内図】 境内図

風土記に賛用都比売命を祀る社の存在が示唆されており、現社地の北側の塚から彌生式土器が出土して、その歴史は極めて古いと思われる。


由緒

播磨風土記に見ゆる佐用都比売命にして大己貴命の妃にして此地方開拓の祖神なり仁明天皇嘉祥2年11月官社に列せられ延喜式の制小社となり永享年間、別所敦範、本郡佐用庄、豊福庄を領し利神山に築城せしより崇敬殊に深かりき天正5年羽柴秀吉中國征伐の際上月城を攻めて火を当社に放つ降って池田輝政播備淡の三國を領し姫路に居城するや其崇敬社となり一族池田出羽守利神城を再築するに至りて同氏の崇敬を受け慶長15年領主良照院之を崇敬せり次いで徳川幕府の旗本松下左近大輔平福に居り一萬石を領し其後数代を経たる松下石見守萬治2年拝殿を再建せり之より先寛永17年松平主馬頭長谷村に居りて当社を崇め孫松平久之丞に至り元禄14年9月上米十五石金子百両を捧げて現今の社殿を再建し当時用ひたる葛紋附の瓦を今に存す寶永2年、享保5年に本殿を建立す明治7年3月神饌所を新築し同年7月郷社に列し同年神饌所を新建す同30年本殿の屋根替を行ひ44年社務所を新築し大正3年幣殿を建替へ同13年2月縣社に昇格す同15年幣殿拝殿を改築せり猶明治大正の間に於ける合祀神社は明治40年に合祀したる荒神社以下八社なり。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



佐用都比売神社

祭神  一杵島姫命  狭依毘売命
播磨国風土記によると、出雲の国から来た大神と妹神が佐用の領有を競ったとき、妹玉津日女命は、生きた鹿の腹をさいてその血に稲をまいたところ、一夜で苗がはえたのでそれを植え付けた。大神は「汝妹は五月夜に植えつるかも」と云い、去っていった。讃容の地名は、ここからつけられたと説明しており、女神を賛用都比売命と名づけたと伝えている。
一千余年の昔、佐用都比売神社は、官社となるほどの大社であった。現在も、佐用郡内はもとより、大阪、広島など遠方からの参拝者が絶えない。

社頭掲示板



佐用都比売神社

ご祭神 狭依毘売命、又の御名市杵嶋姫命。相殿 素盞鳴大神・大国主大神・春日大神・八幡大神を合わせ祀。
創立は太古にて、続日本後記に『第五十四代仁明天皇嘉祥二年(紀元1507年西紀847年)七月官社に預かる』と記されている。更に延喜式内神明帳に『醍醐天皇の御世縁起式内社に預かる』と記されている。播磨風土記に讃容の郡と言う所以は大神妹背二柱、各競いて国を占めたまう時、妹、玉津日女命臥せる生鹿を捕えて其の腹を割きて、其の血を種とまく。忽ち一夜の間に苗生いぬ。即ち取り殖えしめきここに大神、汝妹は五月夜殖るかもと勅りたまい、他処に去りましき。故に、五月夜郷と号ふ。神の賛用都比売命、今讃容の町田に有り。と記されている。古来当地方の開祖佐用姫大明神といい、昔は御神領地が七町七反もあり、宮祭されていたものであるが、豊臣の兵火にてことごとく焼失し、衰微したが、農業・商業・武術安産・縁結・鎮火の神として広く信仰されて来た。国司領主が代々崇敬した神社で、赤松円心、及び兄の孫・別所五郎左衛門敦範(利神城主)・池田三左衣文輝政(白鷲城主)・池田出羽(利神城主)等が崇社とした。その他、山中鹿之助が当地に来た時、尼子家再興を祈念して各燈篭を奉建した事、宮本武蔵が諸国修行に出かける時、当社に本刀二振りを捧げ十七日間参籠してその武運を祈願して出立した事等が伝書にみとめられる。万治三年(紀元2318年・西紀1658年)松平石見守が拝殿を再築、元禄十四年九月(紀元2346年・西紀1686年)領主松平久之助が金子百両・米十五石を献じ、現在の本殿を再建した。大正十二年県社に昇格し、大正十五年現在の拝殿幣殿を氏子並びに一般崇敬者の寄進金約二万五千円と氏子の出人夫約五百人をもつて改築し、更に神域も拡張された。戦後は殊に霊験あらたかとなり、病難・交通安全・安産・厄除け等、ご加護を蒙る者数多。崇敬者は遠く大阪・広島方面に及んでいる。

社頭掲示板



佐用都比売神社

播磨風土記に見ゆる此地方開拓の祖神。
 仁明天皇嘉祥2年(849)、官社に列せられ延喜式の制小社となり、永享年間(1429〜1440)、別所敦範、本郡佐用庄・豊福庄を領し、利神山に築城。
 天正5年(1577)、羽柴秀吉中国征伐の際上月城を攻めて火を当社に放つ。降って池田輝政播備淡の三国を領し姫路に居城するや、其崇敬社となり、一族池田出羽守利神城を再築。同氏の崇敬を受け慶長15年(1610)、領主良照院之を崇敬。
 徳川幕府の旗本松下左近大輔平福に居り一萬石を領す。松下石見守万治2年(1659)、拝殿を再建。
 寛永17年(1640)、松平主馬頭長谷村に居りて当社を崇め、孫松平久之丞に至り、元禄14年(1701)上米十五石金子百両を捧げて現今の社殿を再建。
 宝永2年(1705)、享保5年(1720)に本殿を建立。
 明治7年(1874)、神饌所を新築し、同年郷社に列し、同年神饌所を新建す。同30年(1897)本殿の屋根替を行ひ、44年(1911)社務所を新築し、大正3年(1914)幣殿を建替へ、同13年(1924)縣社に昇格す。同15年(1926)幣殿拝殿を改築。

兵庫県神社庁



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