創立以来の社殿は天正8年長水城主宇野下総守、秀吉公と戦い利あらずして落城の際兵火に罹りて焼失されたと云う。因って御神霊は現在の佐用郡南光町船越、船越山瑠璃寺南光坊へ当時の落人の手により遷座せられ、約百年後の天和2年8月再び現在の社殿を造営した。 |
由緒 当社は創立年代不詳にして社名を延喜神名式の制に大倭物代主神社として小社に列格せられ、明治7年2月郷社に列格、中古以来師衆又は諸守神社と称え祀られるを明治6年中大倭物代主神社と社名改称の儀旧飾磨県へ届出の処明治14年6月10日付けをもって許可せられた、創立以来の社殿は天正8年長水城主宇野下総守、秀吉公と戦い利あらずして落城の際兵火に罹りて焼失されたと云う・・・因って御神霊は現在の佐用郡南光町船越、船越山瑠璃寺南光坊へ当時の落人の手により遷座せられ、約百年後の天和2年8月再び現在の社殿を造営し祀られるものにして時の棟札は当社本殿に宝物として今猶保存されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大倭物代主神社 当社は創立年代不詳にして社名を延喜神名式の制に大倭物代主神社として小社に列格せられ、明治7年(1874)2月郷社に列格、中古以来師衆又は諸守神社と称え祀られるを明治6年(1873)中大倭物代主神社と社名改称の儀旧飾磨県へ届出の処明治14年(1881)6月10日付けをもって許可せられた。 創立以来の社殿は天正8年(1580)長水城主宇野下総守、秀吉公と戦い利あらずして落城の際兵火に罹りて焼失されたと云う・・・因って御神霊は現在の佐用郡南光町船越、船越山瑠璃寺南光坊へ当時の落人の手により遷座せられ、約100年後の天和2年(1682)8月再び現在の社殿を造営し祀られるものにして時の棟札は当社本殿に宝物として今猶保存されている。 尚平成16年台風23号により幣殿・拝殿・絵馬殿が損壊。再建に向け奉賛会を設立し鋭意活動中。 兵庫県神社庁 |