成務天皇14年2月11日神託によって社殿を建てて祀られたという。 播磨風土記に大名持大神(大国主大神)が国土経営の大業をなされ伊和の地で最後の交渉を終えられた時、其の大挙に係わった諸神を招集して酒を醸し山河の清庭の地(当社所在地)を選びて慰労のため饗宴をなしたという。 また、もとは、庭酒神社と呼ばれており、庭というのは宮中を表す字で、庭の酒、宮中に納める酒の神社という意味であった。 播磨風土記には、庭田神社の裏にあるぬくい川に米を漬けていたところカビが生えておいしいお酒になったという記述がある。米で作った酒(日本酒)に関する日本でもっとも古い記述で、日本酒のルーツは庭田神社であるといわれている。 |
由緒 古伝(播磨風土記)に大名持大神(大国主大神)が国土経営の大業をなされ伊和の地で最後の交渉を終えられた時、其の大挙に係はれる諸神を招集へて酒を醸し山河の清庭の地(当社所在地)を選びて慰労のため饗宴をなし給えりし霊跡なるにより、社殿を造り奉りて其の御魂を鎮祭れりと云う。又当社安永縁起に、人皇13代成務天皇の御代甲申2月11日は(131年)神託により神祠を建て崇敬せらる。後神功皇の時に殊に霊験有るをもって、本殿及諸殿を造営とあり、社殿の興廃は度重なるも明らかでないが、寛文11年8月(1663年)本殿をはじめ修営なるも文久3年11月(1863年)に焼失せしにより村民等議りて明治4年12月(1870年)に社殿等再建さる。昭和43年4月幣殿改築、昭和49年10月18日御鎮座1800年祭執行記念事業として拝殿及末社等改築落成現在に至る。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
庭田神社 創立 第13代成務天皇甲申2月11日 祭神 神事代主命 境内面積 1379坪 伝記 古伝によると大国主命が天乃日槍命と国土経営を争い給いし時伊和の地に於いて最後の交渉を終わられ大事業達成に力を合わせられた諸神々を召集えて酒を醸し、山河の清庭の地を選び慰労のため饗宴をなし給えり。 この地が即ち庭酒の里、現在の庭田神社奉祀の霊地なるにより社殿を造営その御魂を鎮祭れりと云う。しかるに当社安永縁起に成務天皇の御代に神託により新たに社殿を建て広く崇敬せらるる。延喜の制小社に列し江戸時代寛文11年社殿改造。元禄15年本殿屋根替、享保8年本殿屋根替、元文3年拝殿屋根替、中略、明治4年本殿棟上げ再建。昭和43年5月幣殿改築。昭和49年10月拝殿改築現在に至る。 霊石 社殿右面にあり 霊地 社殿後方50m ぬくい川 社頭掲示板 |
庭田神社のぬくゐの泉と造酒 庭田神社は、平安時代の延長5年〔927〕に成立した「延喜式」神名帳の宍要郡七座のうちに数えられる古社で、古代・中世には播磨国一宮伊和神社と深い繁がりがありました。現在、神社の背後に玉垣をめぐらした清らかな湧き水「ぬくゐの泉」がありますが、かつて庭田神社の氏子には、宵宮祭の当日早朝に家々で醸した白酒を神前に供え、五穀豊穣を祈る風習があったそうです。和銅8年(713)5月に編纂の命令が下り、平成27年(2015頃)に編纂完了から1300年を迎える『播磨国風土記」には、造酒に関わるおもしろい伝承が多く記載されています。 なかでも、宍禾郡比治里庭音村の条には、次のとおり記されています。 『庭音村。〔本の名は庭酒なり。]大神の御粮枯れて黴生ちき。即ち、酒を醸ましめて庭酒を献りて宴しき。故、庭酒の村と曰ふ。今の人、庭音村と云ふ(「播磨国風土記」山川出版社) 大神の粮(糒)に黴(糀)が生えたので、酒を醸造し神酒として大神に奉ったので、庭酒の村といったが、今の人は庭音の村という。〔現代語釈)』 また郡末の伊和村条には、次のとおり記されています。 『伊和村。(本の名は神酒なり。)大神、酒を此の村に醸みたまひき。故、神酒村と曰ふ、又、於和村と云う。大神、国作終へたまひて以後に云ひたまひしく、「おわ。我がみきに等し」といひたまひき。(「播磨国風土記」山川出版社) 大神が酒をこの村で醸造したので神酒の村という。一説には於和村というが、それは(伊和大神が国づくりを終えられ、「(国づくりは) 終わった。私の神酒と同じくらいよくできた」とおっしゃつた。(現代語釈)』 というようなお話です。 これらの由緒をもって、平成25年に宍粟市は、日本酒による「乾杯」の習慣を広めることで市の歴史と伝統・文化を後世に継承し、地域の振興及び発展に寄与していくことを目的として、「日本酒発祥の地宍粟市日本酒文化の普及の促進に関する条例」を制定しました。 平成26年3月 社頭掲示板 |
庭田神社 古伝(播磨風土記)に大名持大神(大国主大神)が国土経営の大業をなされ伊和の地で最後の交渉を終えられた時、其の大挙に係はれる諸神を招集へて酒を醸し山河の清庭の地(当社所在地)を選びて慰労のため饗宴をなし給えりし霊跡なるにより、社殿を造り奉りて其の御魂を鎮祭れりと云う。 又当社安永縁起に、人皇十三代成務天皇の御代甲申(131)2月11日は神託により神祠を建て崇敬せらる。 後神功皇の時に殊に霊験有るをもって、本殿及諸殿を造営とあり、社殿の興廃は度重なるも明らかでないが、寛文11年(1663)8月本殿をはじめ修営なるも文久3年(1863)11月に焼失せしにより村民等議りて明治4年(1870)12月に社殿等再建さる。 昭和43年(1968)4月幣殿改築、昭和49年(1974)10月18日御鎮座1800年祭執行記念事業として拝殿及末社等改築落成現在に至る。 兵庫県神社庁 |