葦原志許乎神は天日槍神と共に国土経営に際し、黒土志邇嵩におわして土地を拓き、蒼生を定め播北と但馬を統治されたが、事終えられてこの嵩を出発されるに当り、長かつた行在の記念として自らの御杖を山上に刺植えられて形見とされた。よつて社名の「御形」はこの形見、即ち形見代、御形代の意によつて起つたものである。 当初は南東にある高峰山山頂に鎮座していたが宝亀三年(772)、霊夢により社殿を造営し、現社地に遷座。 |
由緒 当社のご祭神は葦原志許男神と申し、又の御名を大国主神とも申し上げます。志許は、元気のある、武勇に優れた、或は神威赫たる神という意味であります。 この神様は、今の高峰山に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。 しかし、その途中に天日槍神が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛を三條づつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條は但馬の気多郡に、一條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。 やがて葦原志許男神は事を了へられてこの地を去られるに当り、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植えられ、行在の標とされました。以て、当社の社名「御形」は、形見代・御形代より起こりました。 その刺し植えられた所に社殿を建ててお祀り申しましたのが当社の創祀であります。やがて奈良朝の宝亀3年(772年)、里人数人が一夜の中に三本の大杉が、山神社の森に鼎立するという霊夢を見、これは山頂の大神の当地へのご遷座の所望であらうとの事で、早速ご社殿を造営し、お祀り申し上げたのが当地での起源であります。 御本殿は、三間社流造、檜皮葺、大永7(1527)年の建立で、昭和42年重要文化財に指定され、昭和46・7年に解体復元工事が施工されて、室町時代後期の見事な彫刻や繊細な組物が甦りました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
御形神社 伝説 1.夜の間杉 奈良時代宝亀3年(772)に、当社の御祭神の夢のお告げがあり、山神社の森に3本の大杉が鼎立し、その中心に高峯山(風土記に云う、黒土の志爾岳)に居られた御祭神を遷座したという伝説の杉。本殿裏の注連縄の掛かった大杉、推定樹齢600年。 2.沖田の碑 高峯山(風土記に云う、黒土の志爾岳)に居られた御祭神は、この神社の坂下の南の、小さな岡に飛び降りられたところ、偶々そこに生えていた柚の木で、目を痛められてしまい、そのためにこの里では柚が実らなくなってしまったと伝えられています。 今はその所に石碑を建てて識としています。(御形大神降臨処、出雲大社宮司。千家尊祀の刻字あり。) 御神徳 当社は1200年以上の歴史を持ち、御祭神は常に「氏子繁栄」を主として見守られ、氏子もまた、よく氏神様を篤く尊敬してきました。その他に五穀豊穣、産業育成、祈雨祈晴、病気平癒等は霊験あらたかなもののうちです。 特に秘伝の病気平癒の蟇目の祈祷は、大病難病に効果著しいとして、今も氏子を中心に波賀、千種などに広く知られています。 社頭掲示板 |
御形神社 御祭神 本殿 葦原志許男神・相殿神素戔嗚神・高皇産霊神・月夜見神・天日槍神 末社 佐閉神社(右側) 日吉神社(左側) 御由緒 当社は、「みかた神社」または「たかみさん」「県社」などと申し、社格は式内小社。 当社のご祭神は葦原志許男神(アシハラノシコオノカミ)と申し、又の御名を大国主神(オオクニヌシノカミ)とも申し上げます。志許(シコ)は 、元気のある、武勇に優れた、或は神威赫(シンイカク)たる神という意味であります。 この神様は、今の高峰山(タカミネサン)に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生(アヲヒトグサ)をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。 しかし、その途中に天日槍神(アメノヒボコノカミ)が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛(ツヅラ)を三條(ミカタ)づつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條(ヒトカタ)は但馬の気多郡に、一 條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。 やがて葦原志許男神は事を了へられてこの地を去られるに当り、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植えられ、行在の標(シルシ)とされました。以て、当社の社名「御形」は、形見代・御形代より起こりました。 その刺し植えられた所に社殿を建ててお祀り申しましたのが当社の創祀であります。 やがて奈良朝の宝亀3年(772年)、里人数人が一夜の中に三本の大杉が、山神社の森に鼎立するという霊夢を見、これは山頂の大神の当地へのご遷座の所望であらう との事で、早速ご社殿を造営し、お祀り申し上げたのが当地での起源であります。 平安時代延長5年(927)撰進の「延喜式」にその名が見え、下って室町時代後期の大永7年(1527)3度目の火災の後再建されたのが現在の御本殿です。三間社流造、檜皮葺、昭和42年国指定重要文化財に指定され、昭和46、7年に解体復元工事が施工されて、室町時代後期の見事な彫刻や繊細な組物が甦りました。 公式HP |
御形神社 当社のご祭神は、またの御名を大国主神とも申し上げます。この神様が当地方を治められていた頃、その途中に天日槍神が渡来して、国争いが起こり、二神は黒葛を以て治める国を定めました。葦原志許男神は、但馬の気多郡、養父郡、三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神は但馬国となり鎮まりました(出石神社)。 やがて葦原志許男神は事を了へられてこの地を去られるに当り、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植えられ、行在の標とされました。以て、当社の社名「御形」は、形見代・御形代より起こりました。 その刺し植えられた所に社殿を建ててお祀り申しましたのが当社の創祀であります。やがて奈良朝の宝亀3年(772)、里人数人が一夜の中に三本の大杉が、山神社の森に鼎立するという霊夢を見、これは山頂の大神の当地へのご遷座の所望であらうとの事で、早速ご社殿を造営し、お祀り申し上げたのが現在地での起源であります。 御本殿は、三間社流造、檜皮葺、大永7年(1527)の建立で、昭和42年(1967)重要文化財に指定され、昭和46(1971)、7年(1972)に解体復元工事。平成15年に屋根修理。 兵庫県神社庁 |